『大内史実録』を飛躍させた西日本中世史の名著 | |
大内氏史研究 | |
御薗生 翁甫 | |
マツノ書店 復刻版 *原本は昭和34年 | |
2001年刊行 A5判 上製 函入424頁 パンフレットPDF(内容見本あり) | |
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『大内氏史研究』 略目次 |
前 紀 第一編 一 大内氏の出自と多々良賜姓 二 多々良氏の始見 三 多々良氏の流罪赦免と抬頭 四 源平二氏の争覇 @源頼政の挙兵 A源頼朝と木曾義仲の挙兵 B平重衝の南都焼討 C木曾義仲の都入りと平家の西奔 D木曾義仲追討 E範頼義経の一ノ谷合戦と平家の屋嶋落 F範頼の西下 G義経の屋嶋攻略 H源平壇浦の決戦 I範頼義経の末路 五 神器帰還の計画 六 阿弥陀堂の建立 第二編 一 鎌倉幕府の創立 二 東大寺の再建と周防国受領 @東大寺大仏の鋳冶 A周防国受領と大仏殿再建 B俟乗坊の事蹟 三 国司と国領 @国防の国務管理と在庁官人 A周防の国領 B法勝寺塔造営料国と感神院造営料国 C東大寺の再度周防国受領 D周防国地頭の対桿押妨 E長門の国司と地頭の押妨 四 鎌倉幕府の地方制度 @守護 第一款 周防の守護第二款 長門の守護 A地頭 第一款周防の地頭 第二款 長門の地頭 五 承久の乱と防長 六 蒙古の来襲と非御家人の武家化並その後の異国警固 七 周防留守所の紛糾と大内重弘 付・覚順房の国分二寺の再興 八 周防合物商売長職補任 九 幕府の疲弊と朝幕関係 十 防長の豪族 @防長の三大族 Aその他の豪族 十一 後醍醐天皇の討幕計画 十二 元弘の乱と長門探題軍の伊予大敗 十三 後醍醐天皇の隠岐島脱出と北条氏の滅亡 十四 長門筑紫両探題の没落園 本 紀 第一編 一 建武中興の政治と大内裏造営の計画 二 中先代の乱と北条氏残党の長門盛山籠城 三 足利尊氏の叛と大内厚東二氏の向背 @尊氏直義の西奔 A尊氏直義の東上 B南北両朝の分立 四 周防敷山城の義戦と大内弘直の忠死 付・上野頼兼の石見経略 五 その後の石見の形勢と防長 六 長門将士の河内国東条発向と四条畷の戦 七 屋代嶋義軍と伊予官軍の提携 八 天下三分の形勢と師直師泰諒伐 九 常陸親王の周防下向と大内弘世の帰順 十 周防守護の南北対立と大内弘世の統一 十一 大内弘世の山口開府と城下町の機構 十二 常陸親王のその後と芸石の形勢 十三 長門守護厚東氏と九州の形勢 付・足利直冬の帰順茜直冬の活躍と防長 十五 直冬と山名時氏の連合 十六 大内弘世の厚東征伐と九州探題の窮迫 十七 弘世の叛と豊前の大敗 十八 弘世の偽降と菊池氏の弘世討伐 十九 大内弘世の入洛 二〇 大内弘世の芸石経略と石見国守護職補任並安芸国守護説 二一 補任並安芸国守護説 二二 弘世時代の大内氏家中 二三 厚東氏滅亡と豊田氏の降伏 二四 征西府の優勢と九州探題今川貞世の下向 二五 探題軍の優勢と征西府の肥後退却 二六 天授元年以後の九州の形勢と菊池氏の敗績 二七 大内氏の神仏崇敬と臨済禅の興隆 第一節 大内氏の氏神氏寺 第二節 大内氏臨済宗の信仰と儒学の興隆 二八 明使趨秩朱本の山口館待と五山詩僧春屋妙葩 二九 元弘世と師弘の争戦 三〇 将軍義満の厳嶋詣 三一 明徳の乱と大内義弘の奮戦 三二 諸将の恩賞と義弘紀泉二州守護の加恩 三三 義弘の南北両朝御和睦の周旋 第二編 一 大内義弘の栄竈と歌道 二 大内義弘と朝鮮交渉 三 応永の乱 四 弘茂と盛見の対抗戦 五 師成親王と崇光院三ノ宮法泉寺方丈 六 盛見の始政と敬神崇祖 七 盛見の修禅と五山詩僧並大蔵経の将来 八 盛見時代の大内氏家中 九 朝鮮の対馬来冠 十 宇佐宮造営と盛見の信仰 十一 九州三大族と大内氏の関係 十二 筑前の動乱と盛見の最後並持世の扶持決定 十三 大内氏の継嗣問題と持世の筑紫平定 十四 大内氏系図正 十五 永享六年以後の九州動乱 十六 大内持世の朝鮮交通 十七 赤松満祐の拭逆と持世の奇禍 十八 教弘の嗣立と満祐追討 十九 教弘の少式教頼討伐 二〇 上杉憲実の入国と竹居正猷 二一 伊与の動乱と大内教弘 付 劉之恵鳳 |
『大内氏史研究』の刊行にあたって 山口県地方史学会 大内氏史刊行会 |
山口県地方史学会々長御薗生翁甫先生は、明治8年の出生で、本年84才の高齢である。もと造船問係の技術者で、長く逓信省海事部に奉職せられたのであるが、つとに歴史に趣味をもたれ、その在職中にも余暇をもって日本の造船史や、瀬戸内海水軍の研究に従い、数々の労作を発表されている。 しかして大正13年退職後は、防長郷土史の闡明に専念され、透徹せる史眼と実地踏査に基づく精細な史実の吟味によって、従来の謬説を訂し、また新分野を開拓されたところが少なくない。 特に大内氏については、明治前半における近藤清石氏の研究以後、ほとんど新しい見解の附加ざれるものがなかったのを、先生はひろく根本史料を渉猟して、その究明に精力を集中し、大内氏の研究を数歩前進せしめた功績は大きい。 また戦前『防長地名淵鑑』『防長造紙史研究』の如き大著があり、これらは防長郷土史研究の水準を示す不朽の名著というてよい。その他別項著述目録にも見られるように、既刊あるいは稿本で公開されている論考が甚だ多く、後学が今日もその恩恵に浴しているところは僅少ではないのである。 しかも昭和4年防長史談会設立に参画し、同12年山口県史編纂所の開設されるや、その所員の一人として史料の採訪集収に尽され、また戦後昭和29年わが山口県地方史学会が結成されるに及ぴ、衆望を担って会長に就任されるなど、終始斯界の第一線に立って活躍されている。昭和26年山口県選奨規定によって学術文化功労者として表彰され、ついで同29年中国新聞社より中国文化賞受賞、更に翌30年には防府市文化賞を受けられたのも、けだし当然といえる。 先生はかねてから、その研究成果が多少なりとも学界に寄与すべきことを念願されて、その原稿を整理し、これを県立山口図書館に寄贈公聞されているのであるが、今回また多年に且って大成された『大内氏史研究』稿本を同図書館に納められた。 平素先生の業績を景仰するわれわれ山口県地方史学会同人は、一方ではこの労作が一般に触目の機会の少ないことを遺憾とし、他方現在なお壮者を凌ぐ意気をもって研究に精進せられる老先生への祝寿の贈物としての意をこめて、これが刊行を計画したのであるが、幸い小沢山口県知事、藤本山口県教青長、長嶋防府市長、毛利山口県地方史学会名誉会長の賛助と、本会々員の協力を得て、「御薗生翁甫先生祝寿記念大内氏史刊行会」を組織し、事業を遂行することができた。 今回これが完成の運ぴに至ったことは、先生学徳の致すところであると共に、各方面の賛助協力の賜で、感謝の至りである。 昭和34年9月 |
大内氏研究に必携の書 山口県文書館専門研究員 和田 秀作 |
このたび、マツノ書店より御薗生翁甫先生の玉著『大内氏史研究』が復刻されることとなった。大内氏のお膝元に生まれ育ち、大内氏に興味を持つ者として喜ばしい限りである。 本書の特色の一つは、大内氏研究の先駆者である近藤清石翁の大著『大内氏実録』(以下『実録』)の不備を補い、かつそれを批判的に継承したところにある。 例えば、『実録』が取り扱っていない鎌倉時代以前の歴史を「前紀」という形で叙述し、全体の四〇%をこれに割いてある。また、『実録』の誤りを正した部分は明示してあるだけでも十数ヶ所以上に及んでいる。特に大内氏の継嗣問題と系図の正誤には重点が置かれている。 これらは、決して『実録』を貶めることが目的ではない。先生が自叙や例言で述べられた表現をお借りすれば、「実録が今日と違って史料の不備な時代の所産」であり、「史観においてその出発点を異にし」ているからである。したがって、結果的に「忌憚なく評論を加えたのも自然の勢いで、まことに已むを得ない」ものなのである。 ところで、本書は今から約四〇年前に上梓されたものであるから、どうしてもその後の研究の成果からすれば再検討すべき点も少なくない。さきほどの先生が『実録』を評価された表現でいえば、ちょうど『実録』部分を本書におきかえたような状況である。それにもかかわらず、大内氏の総合的な著作としての本書の価値はいささかも減じていないといって良い。なぜならば、今日の大内氏に関する研究は、特定の分野での個別研究は深まっているものの、総合的な研究や通史はほとんどないに等しいからである。また逆に、その歴代の事績・文化・外交・職制などの分野で大枠は押さえられているものの、細部にわたると決して十分とはいない状況にあるからである。 したがって、大内氏の研究を志そうとすれば、まず近藤翁の『実録』をよすがとし、次に本書で御薗生先生の学恩にあずからざるを得ない。そういった意味では、本書はまさに大内氏研究に必携の書といよう。そして、本書が編まれた当時と比べて研究条件が格段に恵まれている今日、本書で扱われなかった政弘以降の大内氏の総合的な歴史を明らかにしてゆくことが先生の遺志を継ぐことになるのではないだろうか。 (本書パンフレットより) |
防長中世史の名著 山口県立大学大学院教授 國守 進 |
このたび、マッノ書店から御薗生翁甫先生の『大内氏史研究』が複刊されることとなった。初版が昭和34年、山口県地方史学会によって刊行されて早くも40年余を経過したこと、また、刊行当時のことを思えば感慨深いものがあり、あらためて先生のこの御著の重みを思うことである。 当時、山口県地方史学会は先生のご指導のもと、活発な活動を始めたところで、市町村史をはじめ地方史関係の研究書の出版も相次ぎ、山口県文書館の『防長風土注進案』の刊行も始まったという状況であった。 ただ、学会の機関誌「山口県地方史研究」の編集体制はまだ確立されていなかったため、大学卒業間もない私が、石川卓美先生から第四号の編集を仰せつかり、御薗生先生のご意見を何いながら、私の発案で雑誌のタイトルを御薗生先生の題字に改め、かろうじて印刷にこぎつけたものであった。 先生の『大内氏史研究』が刊行されたのはその前年のことであったから、第四号にまことに簡単ながら紹介させていただいた。先生の『大内氏史研究』は当時の学界でも注目するところで、私の紹介より早く、村井康彦氏が京都大学の「史林」(43編3号)に紹介され、大内氏研究の代表的な業績として知られることになった。 従来の大内氏の研究では、先学の幾多の論稿はもちろんのこと、新たに福尾猛市郎先生の『大内義隆』などもみられてはいたが、大内氏全般を包括する業績は乏しく、大内氏をみるには、とりあえず、近藤清石翁が明治18年に著した『大内氏実録』(昭和49年、マツノ書店復刻)に頼らざるを得ないというのが実情であった。先生の『大内氏史研究』は、そうした道を切り開く意図をもって世に問われたものであって、大内氏の始祖に始まり、室町時代、教弘の時代までの大内氏の発展の過程を概説としてまとめられている。 28代教弘以後、すなわち、29代政弘から31代義隆、そして滅亡に至る歴史の続刊が渇望されていながら、実現しなかったのはまことに残念なことではあった。 しかしながら、こんにち、山口県文書館に収められている「御薗生翁甫文庫」のなかの丹念に筆写された史料集をみるとき、先生の『大内氏史研究』が、こうした史料の厳密な吟味のうえに成り立ったものであることを首肯せざるをえないのであって、山口県域を中心とする中世の歴史、あるいは「大内文化」を考えようとするとき、先ずひもとくべき書物として、末永く輝きを保ち続けることは間違いないと思うのである。 (本書パンフレットより) |