会津に生まれ東大総長となった山川健次郎畢生の名著 本書を読まずして戊辰戦争を語ることは出来ない |
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会津戊辰戦史 付・戊辰殉難名簿 | |
山川 健次郎 | |
マツノ書店 復刻版 *原本は昭和8年 | |
2003年刊行 A5判 上製 函入 880頁 パンフレットPDF(内容見本あり) | |
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『会津戊辰戦史』 略目次 |
1 大政奉還 山内容堂の建白 岩倉の野心 討幕の密勅 政権奉還の上表 小御所の会議 戌辰開戦の責任者 前将軍の下阪 会津藩主従の誓書 薩藩士の暴掠 薩摩邸の焼討 2 伏見鳥羽の戦 討薩の表 開戦 慶喜公の東帰 3 江戸及近邦の形勢 我が公の退隠 我が公の登城を禁ず 慶喜公恭順の意を表す 神保修理の刑死 我が公会津に帰る 輪王寺宮の周旋 江戸の開城 輪王寺宮令旨を会津に賜ふ 上野彰義隊の戦 我が公榎本武揚に越後西軍の背後を衝かんことを勧む 榎本等軍艦を率ゐて亡命す 武川信臣の死 田口治八の死 4 縛野の戦 近藤勇の死 結城内訌 梁田の戦 関宿の戦 宇都宮の攻略 会津に入る 東照宮神輿を移す 今市の戦 太田原城の陥落及び委棄 藤原の戦 大鳥圭介若松に入る 山川大蔵兵を彊内に牧む 5上 東方の戦 我が藩四境を固む 仙台兵を国境に進む 上杉齊憲 会津を救はんとす 仙台米澤二藩の周旋 会津藩相の歎願 世良修蔵等の専横 奥羽列藩の会合 世良修蔵の殺戮 白河城の奪取 5下 東方の戦 白河城の陥落 奥羽越の同盟 西軍植田に至る 棚倉の陥落 泉城陥る 湯長谷陥る 平の戦 輪王寺宮を盟主に推す 平城陥る 法親王軍務を総攬す 棚倉回復戦の不成功 守山の降伏 二本松城の陥落 仙台兵の退去 軍議局の移転 相馬の背反仙台藩の降伏 輪王寺宮の歎願 荘内の降伏 6 越後方面の戦 長岡及び其の附近の戦 飯山の戦 西軍越後に入る 三国峠の戦 雪峠の戦 小出島の戦 鯨波の戦 片貝の戦 榎峠方面の戦 西軍長岡城を陥る 杉澤の戦 雪塚の戦 興板を襲ふ 島崎の前役 指出の戦 今町の戦 島崎の後役 大口の役 森立峠の戦 福井の戦 大黒の戦 半蔵金の戦 荷頃の戦 與板方面退陣 東軍長岡城を復す 新町口の戦 新発田同盟に反き西軍に降る 亀崎の戦 長岡城再び陥る 河井の死 新潟の戦 海岸戦争 灰爪の役 久田の前役 久田の後役 乙茂の役 赤谷口の防守 赤谷の激戦 新谷の戦 津川の戦 西軍舟渡の背を衝く 熊倉の大捷 川手幸八の殉職 全軍退却 一の木戸の戦 村松城の戦 保内村の戦 宝珠山の戦 左取の戦 石間の戦 角島渡頭の対岸戦 五十島の戦 対壘防戦 進撃軍若松に向ふ 進撃軍再び兵を班へす 上田傅次の返戦 諸隊山三郷に向ふ 眞ヶ澤の戦 稲荷山の戦 堂目村の戦 小荒井の戦 7 会津の形勢 軍制改革 輪王寺宮若松御入城 農町兵の募集 諸侯客兵の來去 客兵の入国を禁ず 通貨の鋳造 金物の献納 城中の糧食 塩の供給 8上 会津城下の戦 (自八月十九日 至八月廿四日) 西軍の侵入 猪苗代城の陥落 我が公瀧澤村に向ふ 戸の口原の戦 白虎隊の奮戦 飯盛山の壮烈殉国 田中神保両藩相の自害 南門の戦婦人及び老幼の殉節 蚕口の戦 神保原の戦 8中 会津城下の戦 (自八月廿五日 至八月廿九日) 内藤陣将等の入城 守城の部署を定む 穢多町進撃 女隊の奮戦 小田山を奪はる 護衛隊 西郷頼母の使命 山川大蔵の入城及更に守城の部署を定む 長命寺の戦 8下 会津城下の戦 (自八月晦日 至九月廿四日) 掘久米之助米澤に使す 材木町の戦 蟻無ノ宮の戦 長岡兵の殉難 敵軍の総攻撃 諏訪社の戦 鐘棲守の沈勇 城中の惨烈 一ノ堰の戦 雨屋村の戦 寄合組白虎隊の勇戦 米澤藩降を勧む 開城 君臣訣別 9 南方の戦 野際村の戦 沼山の戦 大内峠の戦 関山の戦 高田の小戦 高田破る 大盧村の戦 水戸兵国境を去る 10 戦後の処置 秋月奥平の贈答 恩詔高田に移囚 東京に移囚 萱野国老の殉国 取締の選定 白虎隊屍体の埋葬 一般戦死者の埋葬 脱走暴挙を戒む 家名再興 斗南移住者の辛酸 容保公喜徳公の謹愼赦免 11 附録 会津松平家略系譜 高須松平家略系譜 会津藩の領知並に知行高 会津藩執政年表 会津へ入る口々 会津藩の教育 天神口の進撃 |
蘇る『会津戊辰戦史』 作家 中村 彰彦 |
三浦梧楼子爵といえば、長州藩奇兵隊から出て陸軍中将となり、宮内顧問官・学習院長・韓国公使などを歴任した人物として知られる。その回想録『観樹将軍回顧録』はどこまでも虚心坦懐な口調で一貫し、かれの大らかな気性が偲ばれるのだが、その一節に長州藩と会津藩の比較をこころみたくだりがある。 「一体長州と会津とは、御維新の当時、順逆の両極端に立ったものだ。順の筆頭は長州で、逆の筆頭は会津だ。順逆共に終結一貫したものは、唯此藩ばかりだ。他の諸藩は、皆中途からその節を変じて居る」 戊辰戦争とは正義の軍隊が逆賊を討った戦いとする「順逆史観」は、今となっては過去の遺物にすぎない。しかし長州人三浦梧楼が、文久二年(1862)十二月以降、京都守護職として尊王援夷派(討幕派)諸藩の前に立ちはだかった会津藩を、最後まで「節を変じ」なかった存在として高く評価していたことは度量のひろさを感じさせる。 周知のように会津藩の初代藩主保科正之は、徳川二代将軍秀忠の庶子、三代家光にとっては異母弟であった。そこに発し、幕府と存亡をともにせよ、という「会津藩家訓」の精神に結晶した同藩固有の佐幕の思いこそが、幕末に至り九代藩主松平容保をして運命の選択に導いたのである。明治元年(1868)九月二十二日、孤立無援の存在と化していた会津藩は、一ヵ月に及んだ苦難の篭城戦の果てに開城降伏。同藩は戊辰戦争に加わった東軍諸藩のうち、唯一滅藩処分という過酷な扱いを受けた。 しかし、会津藩の特徴のひとつは、藩校日新館の学力水準が諸藩中抜群だったことにある。 会津藩は戊辰の賊徒にあらず。その証拠に孝明天皇がもっとも深く信頼していたのは松平容保公だったのだ汚名を雪ぐべくこの一点を文献史料によって証明してみせたのが、旧藩士北原雅長の大著『七年史』(明治三十七年〈1904〉)、おなじく山川浩『京都守護職始末』(明治四十四年)であったことは、つとに常識となりおおせている。 だが、前者は鳥羽伏見以降、降伏開城までの会津藩の戦いについては略述するにとどまっており、後者は大政奉還までで稿を閉じていた。すなわちこれ以降は、会津藩からみた戊辰戦争の実態を包括的に記述する史書の刊行が望まれることになったのである。 昭和八年(1933)に登場した本書『会津戊辰戦史』こそは、まさしくこのような要望に充分こたえるに足る戦記であった。驚くべき執念によって博捜された史料と生き残りたちの証言、それらの出典を明示しつつ各段階における会津藩の立場を簡潔にして主情を排した文体で詳述する本書を読まずして、戊辰戦争を語るのは烏滸(おこ)の沙汰に近い。 私は会津人ではないが、昭和の末にようやく本書を入手して精読するうち、胸が熱くなるのを禁じえなかった。「白虎隊の奮戦」「婦人及び老幼の殉節」「女隊の奮戦」その他の各章には国(藩)を守るためためらいなく出撃し、健気に戦って散っていった者たちの事蹟が淡々と記述されているだけに迫力があふれており、読みさして目頭をぬぐったことも一再ではなかった。 かつて大岡昇平は米軍の俘虜となったわが身を恥じつつも、雄々しく死地へ向かった戦友たちの後姿を可能な限り克明に跡づけるべく、畢生のノンフィクション『レイテ戦記』を上梓した。本書はゆえなく賊徒として討たれ、明治二年の雪解時まで遺体の回収も許されなかった会津藩士たちの御霊に捧げられた紙の碑という点では、『レイテ戦記』に似た執筆意図に支えられている。ただし、大岡作品は時に抒情に流れる。史料をして語らしめよの原則をよく守り、つねに冷静に時代の悲劇を詳述し尽くした点では、山川健次郎をはじめとする編者たちが幾多の修正を重ねてなった『会津戊辰戦史』に一層の重みが感じられるのである。 なお、今回マツノ書店から刊行される復刻版は価格を古書店での相場の半額以下に押さえこんだばかりか、幕末に関する重要史料である百頁に及ぶ『戊辰殉難名簿』(会津弔霊義会刊『戊辰殉難追悼録』所収)をも付録として収録することになった。これは三千人以上に達した会津藩戦死者たちの石高・所属・戦没地・没年齢などを克明に調査した一覧表だが、イロハ順に印刷してあるのをアイウエオ順に並べ替えて頂いたので、より使い易くなったと思う。本書がさらに長く読みつがれ、明治という名の近代の産みの苦しみを知るよすがとなれば、と思ってこの一文を草した。 (本書パンフレットより) |
いまなぜ山口県で『会津戊辰戦史』の復刻出版か 会津史談会元会長 畑 敬之助 |
会津の人間は長州に対し長いこと怨念を抱いてきた。その原因は戊辰戦争に敗れて、 @二十三万石が三万石に減らされ、A士族一万七千余名は流刑同様に本土最北の地・青森県下北半島に移住させられて辛酸を嘗め、B若松城下での会津側の屍体千四百余は九月に戦争が終わっても翌年雪解けまで埋葬を許されず、C慶応四年八月二十三日早朝の西軍侵入は予想以上に早く、折からの暴風雨と重なって農町民を右往左往させたうえ暴行略奪が重なって人命財産に大きな損害を受けた。Dまた元治元年七月の蛤門の変では、皇居に銃砲を打ち込んだ長州兵は朝敵だから靖国神社に祀られるべきでないのに、あべこべに早くも明治二十一年に叙位のうえ合祀され、反面、会津側は再三の陳情にもかかわらずやっと大正四年、二十七年も遅れて合祀された。 会津はこれらの責任を長州に帰した。 しかし私は、Dを除き、@〜Cについては会津側に全面賛成ではなく、かつ、長州藩だけが加害者ではなかったことを敢えて断っておきたい。 では逆に、長州が会津に対し怨念を抱くことはなかっただろうか。 明治の元勲伊藤博文の女婿・末松謙澄博士著『防長回天史』のうち、通巻四〜八で、@文久政変、A蛤御門の変、B第一次征長戦争、C第二次征長戦争の関連記述を読めば、長州側が会津を恨んでもおかしくない多くの事実を発見できよう。しかし今日、長州側からはそういう声は出ない。これは、長州側が戊辰戦争の最終勝利者だったために、市井三郎氏がいうように「加害者と被害者との関係においては、つねに被害の事実認定において加害者のほうが盲目的になりやすい。被害者のみが、この事実を自覚的に体験する」(『歴史の進歩とはなにか』〉と解すべきだろうか。加害・被害の事実を相反的に共有しているにもかかわらず怨念感情では一致しない。その底に何があるのか。私は昭和二十年まで日本人の骨髄に徹していた価値観、天皇至高の尊王意識と朝敵意識の絶対的ともいえる乖離に基づくものだと考える。これに比すれば前述の怨念の原因はその説明役に過ぎない。 忠誠の誇り高い会津人は、戊辰戦争以来昭和三年まで六十年間、朝敵と呼ばれることに臥薪嘗胆の日々を送ってきた。なぜ昭和三年か。実はその年、会津藩主松平家の女性が秩父宮家へ輿入れし、汚名は公然と霽(は)れたと感じられたからである。『若松市史』は「旧会津領たる会津一市五たと郡の官民の歓喜は譬(たと)うるに物なく」九月下旬、三日間にわたり、官民合同祝賀会・旗行列・提灯行列等を行ったと記している。 ところで会津戦争については文献数ある中で、 @『七年史』(明治三七年北原雅長著) A『京都守護職始末1・2』(明治四四年、山川浩著) B『会津戊辰戦争』(大正六年、平石辮蔵著) C『会津白虎隊十九士伝』(大正十五年、宗川虎次著) に本書を合わせて、会津戦争五大名著と称する。 本書は五冊の中では一番遅く昭和八年に発行されたこともあって、それ以前の文献をも参考にし、かつ当時旧藩公邸に出入りしていた旧会津藩関係者の衆知をも集め得たほか、十五歳時籠城に参加し、『京都守護職始末』の実質的執筆者といわれる元東京帝国大学総長・山川健次郎の厳格な校閲をも経ているので、信頼性が極めて高い。 系譜は、慶応三年の「大政奉還」を境に、それ以前を『京都守護職始末』が、以後を本書が分担する構成をとっている。山川健次郎が両書に関わっていることもあって一貫性を失わない。 内容は政争・戦闘・戦後処理その他にわたり、戦闘記録については江戸・総野の戦のほか、(会津)南方の戦をも含み、特に参戦者名簿の詳しさは他書の追随を許さず、会津戦争研究者の好個の資料たり得よう。 読者は本書と『防長回天史』等を併読され、「明治国家」を創成したエネルギーの源流に思いをいたされることを切望してやまない。 (本書パンフレットより) |
『会津戊辰戦史』には、会津藩降伏直後の明治元年九月から十月にかけ、旧知の長州の参謀奥平謙輔と会津藩士秋月悌次郎の間に交わされた手紙が紹介されている。 奥平は会津藩と戦わねばならなかった不幸を嘆く。しかし会津藩が旧幕府のために戦わなければ「徳川氏之鬼」は祀られなかっただろうと称える。そして今後はその忠節を朝廷に尽くして欲しいと願う。 情理を尽くした奥平の手紙に感激した秋月は、朝廷に尽くすことを誓った返信をしたためた。この文通により、秋月は奥平を会津の未来を託せる、信頼出来る人物であると見込む。後日、秋用は越後に奥平をひそかに訪ね、国家再興の周旋を依頼し、会津の少年二人を書生として預けた。少年の一人はのちに東京帝国大学学長を務め、『会津戊辰戦史』の監修者となった山川健次郎である。 会津にとっての明治維新は『会津戊辰戦史』に記録されているように、犠牲の歴史である。一方、長州は栄光の勝者という対照的な評価が一般化しいる。いまだ萩と会津若松両市民間には深いわだかまりの溝が横たわっており、「和解」も程遠いといわれる。 ところが、長州といえども政治家や軍人として栄達を遂げた者はほんの一握りに過ぎない。俗論派や脱隊兵として、歴史の闇に葬り去られた者たちも多い。会津にせよ長州にせよ、立場は異なるも「維新」という大変革の犠牲者だったことは確かである。 明治九年十月、前原一誠を首領とする長州の不平士族による「萩の乱」が起こる。これに呼応し、東京では永岡久茂ら会津士族たちによる反乱が計画されるも、未遂で終わるという、いわゆる「思案橋事件」があった。戊辰戦争から八年後、長州と会津の士族が共に立ち上がらねばならなかった意味を、もっと真剣に考えねばならない。 「明治」という新時代は、長州にとつても、会津にとつても到底納得のゆくものではなかった。かつての敵昧方ではない。お互いが新時代の犠牲者という認識を強く持っていた。だからこそ腐敗、堕落を見逃すことが出来ず、手を結んだと私は見ている。 多くの長州人の本棚に『会津戊辰戦史』が、多くの会津人の本棚に『防長回天史』が収まれば素晴らしい。奥平と秋月がお互いの「志」を認めたように、お互いの「歴史」を認める努力をしなければ、「和解」などありえないのではないか。 (一坂太郎・本書パンフレットより) |