大久保利通文書 全10冊+人名索引
 日本史籍協会叢書
 マツノ書店 復刻版
   2005年刊行 A5判 上製函入 総計 約5700頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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復刻にあたって
■『大久保利通文書』全十冊は侯爵大久保利和、伯爵牧野伸顕ら大久保利通の息子たちが、正確な史料を残すべく膨大な歳月と費用を費やして行った史料編纂事業の一大成果です。
■初版は大久保の五十年忌にあたる昭和二年(1927)九月から同四年十月にかけ、日本史籍協会から三百冊限定で出版されました。戦後、東京大学出版会から復刻されましたがたちまち売り切れ、現在は古書価も高騰し、入手困難な維新史料のビッグネームのひとつとして知られています。
■集められた大久保の文書は、嘉永四年(1851)六月二十八日付の森山与兵衛あて借金証文から始まり、明治十一年(1878)五月十四日、暗殺される三十分前にしたためられた伊藤博文あての絶筆まで、なんと一千八百通余り。これらを年代順に並べ、さらにその間に諸氏の大久保あて文書や参考文書など数百通を挿入して、読者の理解を助けます。
■原稿の整理、校正などの実務は維新史料編纂官薄井福治や、同編纂官で『大久保利通』『甲東逸話』(いずれもマツノ書店で復刻済み)の著者でもある勝田孫弥という一流のスタッフが担当。 しかも、各文書には島津家編輯所編輯員の有馬純彦による簡にして要を得た解説が付されているので、実に使い易い史料集です。
■大久保の魅力はなんといっても、藩の枠を越えた幅広い交遊関係にあります。手紙の宛て名も、伊藤博文・岩村通俊・岩倉具視・大山巌・桂右衛門・川路利良・勝安芳・金井之恭・木戸孝允・黒田清隆・小松帯刀・五代友厚・西郷隆盛・西郷従道・三条実美・佐々木高行・税所篤・重野安繹・寺島宗則・外島機兵衛・得能良介・中根雪江・中井弘・松方正義・松田道之・前島密・宮島誠一郎・山田顕義・山県有朋・吉井幸輔・吉田清成等など、まさに維新の主役たちの名が並んでいます。
■九巻と十巻には、大久保の詩歌集や日記補遺、諸氏の追悼詩歌などの他、「地方制度改正案」や「使清弁理始末」といった多くの関係史料も網羅されており、興味が尽きません。日本近代化の第一線に立ち、突き進んだ大久保の史料集ですから、幕末維新の政治史そのものを辿る観があります。日本史の研究者必携の史料集であることは、あらためて述べるまでもありません。
■今回復刻の最大の目玉は勝田政治編「『大久保利通文書』人名索引」です。本書に出てくる人名すべてを日本人と外国人に分け、五十音順にはいれつしたこの索引によって、利用価値は画期的に高まるでしょう。この索引と本書第10巻の「大久保利通文書索引」(各文書名に内容を略記し五十音順に配列。86頁)を合本。併せて約200頁の別冊となります。
■また本書初版の中でも特に大久保家の「特製版」だけに掲載されている口絵写真、計68点を全て収録します。珍しい写真の数々は当時としては驚くほど鮮明です。また文書類はすべて全編が掲載されており、小さい文字ながら読むことも出来ます。日本史籍協会の初版、またその復刻版にも写真はごく一部しか掲載されておりません。


『大久保利通文書』復刻版掲載口絵写真の一部
無参和尚の座禅石 鹿児島市草牟田町、利通誕生地の記念碑 鹿児島市下加治屋町、鹿児島下加冶屋町の方限全図、京都石薬師利通の旧宅及茶室、京都岩倉村岩倉公の旧宅、岩倉全権大使一行の写真 明治五年二月、仏国巴里府に於ける鹿児島県人会 明治六年、泉州高師濱の記念写真 、米人ペリー氏青山展墓の記念写真、利通肖像、利通大礼服の肖像 明治六年仏国巴里撮影、高輪別邸の写真、東京清水谷公園の哀惜碑、勅撰神道碑前の記念写真 利通五十年祭典当日、利通夫人満寿子の肖像 (唯一の肖像写真)、利通遺愛品 (碁石・碁盤・刀剣・硯ほか)菊池源吾(西郷隆盛)への書翰安政五年十二月、木戸孝允への書翰 慶応二年四月二日、岩倉公への書翰 慶応三年正月、西郷従道への書翰 明治七年八月五日、黒田清隆への書翰 明治七年十月三十日、伊藤博文への書翰 明治十年二月七日、石原キチ子への手紙 明治二年二月、勅使差遣に関する極内覚書明治元年正月、徳川氏処分に関する意見書 明治元年二月、宮廷改革に関する意見書 明治元年二月、三条・岩倉両公に呈せし建言書 明治元年四月、悪弊禁止に関して藩庁への建言書 明治二年四月、行政改革に関する建言書 明治九年十二月、倒幕の密勅請書 慶応三年十月十四日、王政復古断行に関する建言書 慶応三年十二月八日、賞典禄奉還の上書 明治三年三月十九日、御巡幸沿道各県へ内示の大意、出師表一節



 明治維新を知る宝庫  〜『大久保利通文書』の復刻に寄せて
   国士舘大学文学部教授  勝田 政治
 勝田孫彌『大久保利通伝』が「維新の元勲、明治政府の建設者」と評しているように、大久保利通は日本歴史上における最大の変革の一つであり、近代日本の出発となった明治維新をもっとも主体的に担った政治家である。明治維新は大きく二つの時期に区分できよう。前期が幕藩体制の崩壊期であり、後期が近代国家の形成期となる。そして、そこには実に多くの政治家が登場している。しかしながら、前・後期の全期間にわたり、一貫して中央政治の表舞台で活動した人物は、大久保以外には見当たらない。西郷隆盛や木戸孝允は、前期では目を見張る活躍をしているが、後期では次第に影が薄くなっていく。西郷は後期の征韓論政変で政府を去り、木戸も政変前後から病気により政府から離れがちとなった。また、大久保の同志岩倉具視は、幕末には京都の中心から追放され、前期は表面での政治活動は不可能であった。大久保の足跡は、明治維新の全期間と重なるのである。

 大久保は、開国にともない政治状況が流動するなかで「国父」島津久光のもと、薩摩藩を代表して朝廷や幕府および諸藩との交渉の前面に立ち、藩論を公武合体論から最終的に倒幕論に導き、朝廷の岩倉具視と結んで幕府や摂関制の廃絶を宣言する王政復古クーデターを画策し断行した。そして、明治新政府内において版籍奉還から廃藩置県を実施し、藩体制を解体させて中央集権を実現した後、西洋文明の摂取を意図した岩倉使節団の副使として欧米を視察した。帰国後に征韓論をめぐって西郷隆盛と袂を分かち、封建制度の解体には不退転の決意をもってのぞみ、自ら創設した内務省を中心として近代化政策を推進する一方、外交面では台湾出兵や朝鮮開国問題、樺太・千島列島や琉球をめぐる国境の画定問題などの懸案事項に取り組んでいる。

 こうして幕末から明治初期の重要課題に深く関わった大久保は、積極的に情報収集に努めるとともに、彼のもとには多くの機密事項がもたらされている。とりわけ、1873(明治6)年の征韓論政変後、「大久保政権」と称されるように明治政府最高実力者の地位に登りつめ、以後紀尾井町で暗殺される1878(明治11)年までは、内外の諸政策が大久保のもとで立案・実施されることになる。したがって、『大久保利通文書』は大久保個人の記録にとどまらず、まさしく明治維新の史実を知りうる宝庫(基本史料)となっている。

 『大久保利通文書』は、大久保利通の遺族である大久保利和(長男)・牧野伸顕(次男)・大久保利武(三男)らが、書翰・建白書・覚書などを精力的に収集し続けた成果である。大久保家が、島津家や岩倉家をはじめとする諸家から収集した文書(原本や写本)は、一八〇〇余点にも及んだという。勝田孫彌が一九一〇(明治四三)年から翌年にかけて、大著『大久保利通伝』を刊行できたのは、ひとえに大久保家が収集した文書の提供があったからである。その後も大久保家では、文書の整理編集を継続して四八巻にわたる原稿を作成し、大久保利通の五〇周忌にあたる1927(昭和2)年から29(昭和4)年にかけて、日本史籍協会(維新史料編纂会の外郭団体)から『大久保利通文書』全一〇巻として刊行した(史籍協会本)。

 原稿の整理校正は、維新史料編纂官の薄井福治(一・二巻)と同編纂官補の森谷秀亮(三〜一〇巻)が担当した。出版にあたっては勝田孫彌が尽力し、森谷は大久保家収集文書以外に多くの公文書を採録している(森谷はその後、1966〈昭和和41〉年に日本史籍協会代表となり、明治維新関係史料集である膨大な同会叢書を復刻し、さらに続編を刊行した)。収録した書翰・建白書・覚書などの一点毎に〔按〕と〔解説〕を付し、〔参考〕として大久保宛書簡などの関係史料を載せている。島津家編輯所編集員有馬純彦による〔解説〕は、文書を読解するにあたっての手引きとなっている。

 『大久保利通文書』の原本(写本)は大部分保存されているが、一部は散逸してしまっている。失われた原文書は、現在では『大久保利通文書』の中にしか残されていないことから、史料的価値は非常に高いものがある。史籍協会本はその後、二回(1967〈昭和42〉年〜69〈同44〉年と1983〈昭和58〉年)東京大学出版会より復刻されている(東大本)。しかし、東大本は史籍協会本に採録されていた口絵写真の大部分を削除してしまっている。今回の復刻は史籍協会本であり、貴重な写真資料も復刻されるのは喜ばしい。なお、新たに「人名索引」を付したことも一言しておきたい。

 明治維新のみならずすべての歴史事象は、多角的に見なければならないことは当然である。薩摩藩出身の大久保を中心として見ることに対しては、とかく「薩長史観」という批判が寄せられるが、大久保を抜きにして明治維新を語ることはできない。その意味で『大久保利通文書』は、現在でも明治維新史研究の根本史料なのである。研究者は徹底的に読み込むことによって新たな発見が可能であろうし、一般の人々も大久保の生の言葉を通して明治維新の史実に触れることができるであろう。
(本書パンフレットより)


 大久保利通が捲いた種
     萩市特別学芸員 一坂 太郎
 大久保利通のリーダーとしての偉大さは、あの明治初期において出身藩にこだわらず、実力を重視して数々の人材を登用した点にあると思う。同じ薩摩藩出身で大久保の竹馬の友だった西郷隆盛は、確かに「情」の人だった。しかしそれゆえに同郷人の取り巻きに担がれて西南戦争を起こし、壊滅していったのとは対照的である。
 そんな大久保を語るのに、長州云々と言っている場合ではないのだが、やはりマツノ書店読者諸兄の中には、山口県郷土史との関わりに強い関心を寄せられる向きもあるだろうから、『大久保利通文書』全十冊を紐解きながら、二、三の気づきを述べておきたい。
 大久保利通と一致協力し、スタートしたばかりの明治政府の権威を確たるものとすべく、その舵取りを進めた長州藩出身者は、参議の広沢真臣と木戸孝允である。特に広沢が明治四年(1871)一月に暗殺されるや、木戸と大久保の緊張した連携が政府の主軸となってゆく。

 『大久保利通文書』には大久保から木戸あてが四十七通、木戸から大久保あてが十九通収められている。大久保の書簡は薩長提携直後の慶応二年(一八六六)四月、幕府側の京阪における情勢を知らせたものに始まり、明治十年一月、所労見舞いを謝したものまで、まさに両雄の交流史といった内容になっている。
 ただし維新後の木戸は健康状態がすぐれず、版籍奉還後の政策や、清国や朝鮮への使節派遣など、打ち出す政策もタイミングが悪くて上手くいかなかった。明治六年、いわゆる征韓論争で大久保と組んだ木戸は内治優先を唱えて西郷隆盛に対抗する。ところが木戸は途中でリタイアしてしまい、この事が最後まで踏みとどまって奮闘した大久保の以後の優位を決定的にした。
 そうした中で、木戸派官僚の多くが木戸から離れ、大久保へと接近する。最も露骨だったのは、幕末から木戸の腰巾着だった伊藤博文だ。明治四年の岩倉遣欧使節団に加わり共に渡欧したあたりから大久保に近寄ってゆくのだが、木戸としては面白くなかったらしい。

 かつて吉田松陰に「周旋家になりそうな」と評された伊藤は、確かに実務能力に長けていた。大久保は特にその点を重宝がり、工部卿や法制局長官などの要職を任せている。また、明治八年二月には、大久保体制に対する反発から下野した木戸を伊藤が説得し、大阪に呼び寄せて大久保と会談させるという調停役を務めるまでになっていた。
 伊藤と大久保の間を往復した書簡は、『大久保利通文書』中の白眉だ。まず、その量に圧倒される。大久保から伊藤あてが二百五十八通(連名も含む、以下同)ある。これは、岩倉具視あての四百五十五通(意見書なども含む)に次いで多い。また、伊藤から大久保あても百五通が収められている。これだけでも一、二冊の本が書けそうな質量だ。
 その他、長州藩出身者では品川弥二郎あて四通(品川より二通)、林友幸あて十二通、槙村正直あて五通、井上馨あて二通(井上より二通)、山田顕義あて二通(山田より一通)、山県有朋あて十通(山県より四通)、広沢真臣あて一通(広沢より三通)、福原和勝より一通などが目につく。一概には言えないけれど、往復書簡の数量は各人と大久保との交流度合いを物語る。

 以前、何げなく『大久保利通文書』第九の頁を繰っていて、偶然目に留まった書簡がある。十三頁以下に紹介された明治十一年二月六日、重野安繹にあてたものだ。重野は薩摩藩出身で、当時修史館の一等編修官。大久保は伊藤博文と相談したすえ、英仏の歴史編纂方法を調査させるには「末松謙澄」が「適任」だと思うので、上申書を提出させて欲しいと重野に依頼する。
 末松は北九州出身で、太政官権少書記官などを務めていた。幾多いる候補者の中から末松に白羽の矢を立てたのは、大久保だったのだ。

 ちなみに大久保は三カ月後、東京において不平士族に暗殺されてしまう。一方、末松は帰国後伊藤の次女と結婚し、衆議院議員、あるいは毛利家歴史編輯所総裁となり、長州藩の維新史として不動の地位を誇る『防長回天史』を完成させたことは周知のとおりである。
 そのように考えながら大久保の書簡を読むと、『防長回天史』の背景にも、どこかに大久保が撒いた種が存在しているような気がして、不思議な気分になってくるのである。
(本書パンフレットより)