刊行後七十年、改めて世に問う松陰伝の名著 | |
吉田松陰 | |
玖村 敏雄 | |
マツノ書店 復刻版(再) *原本は昭和11年岩波書店 | |
2006年刊行 A5判 上製函入 460頁 パンフレットPDF(内容見本あり) | |
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■かつて松陰伝の三大名著とされてきたのは、徳富蘇峰著『吉田松陰』(岩波文庫)、奈良本辰也著『吉田松陰』(岩波新書)、そして本書でした。 ■小社では今から昭和57年、岩波書店から特別に許可を得て本書を復刻しました。「予約特価五千円」でしたが、「限定五百部・番号入」は即座に売り切れ、驚いたことをよく覚えています。 ■その後も本書へのご要望は増すばかりなので、改めて岩波書店の許可を得て、再復刻に踏み切りました。今回は毛利一枝さんによる「特装普及版」と銘打ち、それでも予約特価は二十四年前と同じに止めました。前回同様、B6判の原本をA5判に拡大した読み易い本です。 ■教育の不毛がいよいよ深刻さを増している現在、「松陰研究の原点」のご一読を心からお奨め致します。 著者路歴 玖村敏雄(くむら・としお 1896年12月8日 - 1968年2月21日) 明治29年 山ロ県徳山市生れ。山ロ県立徳山中学校、山口師範学校をへて広島高等師範卒。昭和5〜19 広島高等師範学校教授。ペスタロッチ研究に傾注し、全集完成に尽力。その実績を買われて松陰全集の編集委員。主著『吉田松陰全集』全十巻『吉田松陰』『吉田松陰の思想と教育』岩波書店。昭和43年没。 |
『吉田松陰』 略目次 |
第一章 山鹿流兵学師範時代 @家計 庭訓 出生 吉田家 運命 義母 杉家 祖父母 誕生の家 父母 父の教育 A兵学の修業 玉木文之進 林真人 山田宇右衛門 山田亦介 養父の志を知る 世界の形勢 他流兼修 天分と努力 学問の態度 B明倫館兵学師範 藩主の値遇 明倫館の教育 教育の実際 門人 野外演習 時務策 海防御手当御内用係 第二章 遊学時代 @鎮西遊歴 遊学許可 沿道の見聞 葉山佐内 山鹿萬助 望郷の夢 長崎滞在 帰途 A第一回江戸遊学 藩主と松陰 江戸に於ける修学 教育者的 性格江戸の師友 学問の分野 海防の問題 B東北遊歴 江幡五郎 志士中の仙人 亡命事情 水戸滞在 東北遊 C屏居待罪 意気軒昂 帰国屏居 国体の研究 教育者的生活 御家人召放 藩主の愛惜 D諸国遊歴 更生の旅へ 森田節斎 谷三山 伊勢 竹院禅師 E第二回江戸遊学 ペリーの来朝 佐久間象山 時務策の上書 F踏海前後 長崎に向かう熊本長崎 東下の沿道 江戸の桜 踏海策決行 下田に至る 雄図敗る 江戸へ護送 教育者的性格 第三章 第一回在獄時代 @江戸獄 踏海の是非 判決江戸獄 A金子重之助 護送途次 松陰の温情 岩倉獄 松陰の哭詩 B野山獄 二十一回猛士 一族の恩愛 松陰の感謝 三余読書 幽囚録 開国論 東洋政策 天朝と幕府 C野山獄に於ける教育 同囚十一人 「新入」松陰 座談会 講孟余話 協同者 獄風改善 教育の成功 D講孟余話 本書の価値 学問の態度 国体論 教育論 第四章 幽室時代 @読書と著述 免獄事情 読書量 支那史 国史 国体 国体思想の転換 日本儒書 郷土史 A幽室と松下村塾の教育 父兄親戚と講学 武教全書講録 松下村塾記 塾風 B松下村塾の精神 塾の理想 討幕論を排す 生きた学問 須佐の育英館 家学教授の藩許 戸田の青年 一族の支援 C松下村塾の実践運動 年長塾生の実践運動 明倫館派と和解 戊午の密勅 D松下村塾の門人 高杉晋作 吉田栄太郎 久坂玄瑞 入江杉蔵 久保清太郎 佐世八十郎 中谷正亮 E松下村塾の閉鎖 計皆破る 大原重徳 間部老中要撃策 玉木文之進の尽力 門人家囚となる 神国の幹 第五章 再獄時代 @絶食求死 憂国の情 密使来る 忠義と功業 絶食沈思 A伏見要駕策 参勤反対 塾の破却 入江兄弟投獄 B死生の工夫 安心立命の地 忠孝は一致するか 自己一人 松陰と仏教 第六章 殉教前後 @東送 覚悟 父母の家 出発 A江戸再獄 訊問 揚屋入り 高杉晋作 獄中の友 死罪の予感 B処刑 永訣の書 遺託 留魂録 刑の申渡 処刑 埋葬 父の満足 第七章 流布遺響 墓碑建設 塾の復興と遺著の出版 門下生の活動 公武合体論の排除 攘夷 討幕 慰霊祭 藩主の哀悼 聖恩枯骨に及ぶ 解説 松陰像と玖村敏雄『吉田松陰』(田中彰) @吉田松陰と現代 A明治期の松陰像 B大正期から昭和前半の松陰像 C玖村敏雄とその著『吉田松陰』の位置 |
教育者・松陰像を樹立 作家 山田兵庫 |
維新の混乱未だ治まらぬ明治八年(1875)に出版された、転々堂藍泉堂編『近世報国百人一首』には、吉田松陰の次のような略伝が紹介されている。 「吉田寅次郎矩方ハ長門萩の人にして佐久間象山に附て学び、道博く衆に先だつて洋行の意有しが、其機を過ちて遂に尊援を唱へ、確老間部詮勝を撃んと本国を脱して上京し、事ならずして己未の十月廿七日刑死す。曾て文章に巧にして幽囚録・留魂録等の著述あり。方今専ら世に行はる」 あるいは、その前年に出た染崎延房編『義烈回天百首』にもほぼ同様の記述がある。あまり注目される機会が無いが、これらは短文とは言えど最も早い時期に世に出た松陰の伝記である。 老中間部を撃つために上京したというのは誤りだが、そのへんは目をつむろう。ともかく、これを読むと松陰は、アメリカ密航未遂事件を起こしたり、老中暗殺計画を企んだりという、勇ましい人物といった印象を受け、違和感を覚える。それにも増して不可解なのは、「松下村塾」の名が登場しない事だ。 これら二著よりも僅かに古い、明治六年出版の『復古夢物語』には「松陰松下塾二孫子を評註す」と題された挿絵があったりするから、一概には言えないけれど、「松陰=松下村塾」という図式は、当時必ずしも一般的では無かったのではないか。明治の初めにおける「吉田松陰」とはまず第一に、「志士」「壮士」として評価された人物であった。 ところが現代では、松陰は松下村塾を主宰した、「教育者」としての面が高く評価されている。確かに僅かの期間に、萩の松下村塾という晒屋で熱弁をふるい、多くの若者の魂を揺さぶった史実は、教育史上に特筆すべき奇跡といえよう。 後年、歴史の表舞台に立つことになる高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿・入江九一・寺嶋忠三郎・前原一誠・伊藤博文・山県有朋・品川弥二郎・野村靖・山田顕義等々といった門下生たちは、みな萩やその近郊に住んでいた少年たちに過ぎない。大坂の適塾や九州日田の成宜園のように、全国から選りすぐりの秀才を集めた私塾ではないのである。 人間は賢愚さまざまだが、必ず一つか二つの才能は持っている。それを伸ばしてやれば立派な人物になれる…という意味の言葉を松陰は述べている。こうした人間に対する、絶対的とも言える信頼が松陰の教育のべースになっていた。 松陰は、強烈な魅力を放つ若者だった。尊王撰夷を説き、幕府を非難し、その教えの上に死んでみせた。松陰の志は門下生たちに受け継がれ、永遠になってゆく。つまり松陰の教育は、みずから立てた志を貫き、捨て身になってこそ完結した。古今東西の教師が、容易に松陰には近づけない最大の理由は、ここにある。松陰は、門下生を理屈や知識で「教化」したのではない。「志士」としての自らの生きざま、死にざまを見せて「感化」したのだ。 松陰没後間もないころ、土屋蕭海が書きかけていた松陰の伝記を読んだ高杉晋作が、「何だこんな物を先生の伝記とする事が出来るか」と言い、引き裂いたという逸話がある。それ程、松陰の魅力は言葉で表わし切れるものではなく、伝記執筆も容易ではないのだ。昭和十一年(1936)に岩波書店から初版が出た玖村敏雄『吉田松陰』は、あらためて述べるまでも無いが、数ある松陰伝記の中でも白眉とされる。著者玖村は明治二十九年、山口県に生まれ、広島師範教諭や広島高師教授を務めた。『吉田松陰全集』編著者玖村は明治二十九年、山口県に生まれ、広島師範教諭や広島高師教授を務めた。『吉田松陰全集』編纂の主要メンバーの一人でもある。ゆえに多くの史料に接する機会があり、それを基に著したのが『吉田松陰』なのだ。 松陰の生涯を実証的に、丁寧に描き、しかも根拠となる史料には、一々出典を明記する。「正伝」と言うべき伝記だ。 教育者である玖村は、それまで発表された松陰伝記に物足りなさを感じていたようだ。教育者としての松陰の姿が、しっかり描かれていなかったからである。 執筆にあたり玖村は、「筆者は少しく立場を変へて家庭人国家人として生ひ立ちつゝ求道的生活に即して生長して行つた思想過程に重きを置き、それと行動、殊に教育者的行動との関係を見失はぬやうに注意した」と、従来の松陰伝記との違いを述べている。 本書により、「志士」「壮士」だけではない、「教育者」としての松陰像が確立されたと言えるだろう。人が人に影響を与え、導くとはいかなるものかという問いに、本書はいくつもの実例を示し答えてくれる。もちろん前の一文を見ても分かるとおり、時代の制約はある。しかし刊行後七十年を経てもなお生彩を放っている本書は、まさに名著の名を冠するのに相応しい。不安な時代になればなるほど、政治でも教育でも、何かにつけて松陰が話題に上り、その再来が期待される。純粋に生きた人物だけに、都合よくイメーシだけが利用され易いのだ。だからこそ本書のように丁寧に書かれた伝記が復刻され、読み継がれなければと思う。 最近、「松陰と白分は似ている」という厚顔無恥としか思えない政治家の発言を新聞で読んだ。ここで多くを語る気はない。ただ私はその瞬間、松陰伝記を破り捨てた、晋作の心境が理解出来た気がした。 (本書パンフレットより) |
松陰の事実と読者の自由〜玖村敏雄著『吉田松陰』復刻に寄せて〜 北海道大学名誉教授 田中彰 |
吉田松陰というひとりの人間の、わずか三十年たらずの"生"の光芒が、生誕一五〇年後も、いまなお人びとを鮮烈に照射しつづけているのはなぜか。 それへの答えは、人それぞれが、松陰の生きざまを事実として知る以外に手立てはあるまい。 その松陰を語った伝記は、明治以来このかた、単行本のみですでに一五〇冊をはるかに越えているのだ。 そうしたなかで、この玖村敏雄著『吉田松陰』は、松陰の生涯をもっとも精細に、もっとも事実に即して描いているものといえる。それは著者が『吉田松陰全集』全十巻(岩波書店、1934-36年刊)の編者であることによって、はじめてなしえたことなのである。 本書は、この『全集』第一巻に収められた伝記に手を加え、1936年(昭和十一)十二月に岩波書店から刊行されたものだが、著者は本書でとくに次の三つを意図したと「序」で述べている。 その第一は、従来の諸著の「誤謬を訂正する」こと、第二は、「一々原典の出処を明らかにした正伝」として、「確実なこと」を伝えること、そして、第三には、「松陰の内面的生活の展開」に力点をおいて叙述することであった。 この第三を、著者の言葉で再言すれば、松陰が、「家庭人国家人として生ひ立ちつつ求道的生活に即して生長して行つた思想過程に重きを置き、それと行動、殊に教育者的行動との関聯を見失はぬやうに注意した」ということになる。 これは本書が、「教育者的」松陰像を提出したことを意味するが、同時にそれは、当時の時代を反映した本書の限界にもなっている。しかし、私が本書の復刻を喜ぶのは、松陰の"生"の事実を知るには、何よりも本書にたよることが先決だと思うからである。 そこから何を学び、いかなる松陰像を描くかは、読者の自由なのである。その自由に本書は十分応えてくれるはずだ。 【前回(昭和57年)の小社復刻版に際して頂いた推薦文です。そのとき23頁に及ぶ立派な「解説」も賜り、復刻版巻末に掲載しましたので、今回もそれを転載致します。】 |