文久2年〜明治元年の7年間を一切の詩情を排し「史実」に徹することによって
会津側から克明に記述、類書ない貴重史料満載
七年史 上下 (+別冊)
 北原 雅長
 マツノ書店 復刻版 *原本は明治37年 啓成社
   2006年刊行 菊判 上製函入 計 1930頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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■復刻に際しては家近良樹氏がこのたび新たに作成される、本書の「注」(59頁)を別冊添付致します。本書原本には統一したノンブルがなく、復刻本に新しく記入するノンブルを基に作成しました。
■「装傾・毛利一枝」ですが、初版の雰囲気をすこしでもそのままお伝えするため、本体表紙のデザインだけは初版の「特装本」に準じます。また初の試みとして、初版同様堂々とした「菊判」にします。それらのための価格への上積みは、一切しておりません。
■本書はこれまでの『会津戊辰戦史』『京都守護職始末』同様、福島県内すべての公共図書館へ献呈致します。そのため「限定番号」は入りません。


『七年史』を読んだ徳川慶喜
   大阪経済大学教授 家近良樹
 『七年史』に注釈をつけるために、初めて全巻に眼を通した。なにしろ分量が多いので、一読するだけで優に二ヵ月以上かかった。勿論、これまで『七年史』には度々世話になったが、最初から最後まで読み通すことはなかった。恥ずかしいことだが、いわゆる摘み食い的な利用の仕方にとどまっていたのである。
 通読した結果、改めて、『七年史』最大の魅力は、著者北原雅長の経歴による所大だと思った。北原は、会津藩士として幕末に上洛し、その後戊辰の役にも参戦した人物である。その彼の体験談(若松城での籠城話や会津藩が次第に対幕強硬派の標的となっていく話など)が何といっても面白い。私が本書を評価し、推薦する理由の第一はまずこの点にある。

 また、通読したことで、ささやかな発見もあった。北原は、本書の冒頭で、「正確の事実を述る」ことに徹し、「みだりに」個人的な見解を記さないと宣言した。しかし、怜悧な人物であったと思われる彼も、時に青年時のことを思い出して感極まり、痛烈な批評を付すことになる。無論、その矛先は、「天下の輿論」ではなく、自分たちの「私意」にもとづく王政復古を行なった薩長両藩関係者や三条実美らの公卿に向けられた。だが、それ以上に、旧幕関係者への攻撃はするどかった。すなわち、本書では、徳川の支族である元越前藩主松平慶永らの薩長への迎合的な対応や西軍に寝返った彦根藩や米沢藩等の行為が、静かだが激しく批判されている。また、そこまではいかないが、最後の将軍となった徳川慶喜に対しても、中々辛辣な批評が加えられている。朝廷から撰夷の実行を求められた慶喜がその不可を知りながら抗命しなかったことや、禁門の変前の逡巡に終始した態度への批判などがそれに該当する。

 慶喜は、公爵となった後、自分が主役であった幕末期の歴史評価を確定する作業に主体的に係わった。そして、丁度、その頃、北原から題辞を求められ、それに応じる。ということは、当然のことながら、『七年史』を熟読したことになる。私の興味をひくのは、慶喜は自分に向けられた北原の遠慮がちではあるが、抗議の弁を、明治三十年代後半の時点でどのような想いと共に受けとめたのかということである。と同時に、『七年史』には、会津藩主の松平容保に対して語られた一四代将軍徳川家茂の慶喜への不信感も綴られている。将軍職を慶喜に譲ることに家茂が元来不本意であったといった内容である。このような苦い、しかし紛れも無い事実を『七年史』から読み取った慶喜は、老境にあっていかなる感慨を抱いたのか。興味はつきないが、徳川慶喜は、何ら感想を洩らさないまま、あの世へと旅立ったのである。
(本書パンフレットより)


 名著『七年史』の復活を祝して
     作家 中村彰彦
 奥州会津二十三万石(幕末には二十八万石)は、徳川家の北の藩屏と自他ともに認めた雄藩であった。二代将軍秀忠の庶子にして三代家光の異母弟にあたる初代藩主保科正之が定めた「会津藩家訓」は、つぎのように始まる。
「大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国の例を以て自ら処るべからず」将軍家に対しては、諸藩と同程度の忠義を励むだけでは足りないというのだ。文久二年(1862)、尊王撰夷運動の昂揚と朝幕関係の緊張を憂えた幕府が京都守護職を創設したとき、会津藩九代藩主松平容保に白羽の矢が立てられたのも、この「家訓」の文面がひろく知られていたためにほかならない。

 幕末通には周知のごとく、同年暮に上京して公武合体の世の実現に力を尽くした容保は、鳥羽伏見の戦いに旧幕府軍が敗退するや、一転賊徒首魁として追討される運命をたどった。本書の『七年史』という題名には、この文久二年から明治元年までの七年間の会津藩の歩みを克明に記述した史書、という意味合いがこめられている。
 以下しばらく、本書によって初めて明らかにされた史実をいくつか紹介してみよう。まず文久二年の政情を語る「第一巻 壬戌記上」「第二巻 壬戌記下」は、孝明天皇が容保を上京する前から好意的に眺めていた事実に言及する。「第三巻 癸亥記一」では、上京した容保が策を用いたいと発言した家臣に対し「策略は正道にあらず」と色をなした光景が描かれる。著者北原雅長、通称半助は容保の側近としてつねにかれに雇従していたからこそ、後世の史家にはとても書けないこれらのことをも記述することができたのだ。
 さらに「第五巻 癸亥記三」の白眉は会薩同盟の下に文久三年八月十八日の政変が成功するくだりであるが、会薩両藩および追放直前の長州兵の軍装から一触即発の状況までが、実に詳しく記録されているのに驚かされる。余談ながら私は長編小説『落花は枝に還らずとも 会津藩士・秋月悌次郎』(平成十六年、中央公論新社)を執筆中、八月十八日の政変の章に至るや本書の記述をもっぱら参考にした。本書以上のレベルにある史料は、世に存在しないからである。
 ついで「第七巻 甲子記一」から「第十巻 甲子記四」までは、池田屋事件と禁門の変(蛤御門の変)の勃発した元治元年(1864)の出来事をほかの巻とおなじく編年体で記述しているため、新選組も登場する。このころ会津藩が国力を疲弊させつつあったという事実の提示なども、同藩の内情に通じた者ならではの指摘であろう。

 ほかにも本書には、注目すべき点が少なくない。『孝明天皇記』にすら収録されていない、孝明天皇から諸方へ発せられた宸翰が多数紹介されていること。特に天皇が八月十八日の政変によって尊譲激派公卿が一掃されたことを喜び、容保にその忠誠の心を愛でて与えた宸翰の文面が初めて活字化されたことは、北原雅長の最大の手柄でなければならない。これによって初めて、容保は明治以降の官製史観―いわゆる順逆史観の主張する賊徒などではなく、天皇のもっとも信頼厚い武官であったことが証明されたからだ。

 なおこの宸翰が存在することは、つとにマツノ書店が復刻した男爵山川浩遺稿『京都守護職始末』(明治四十四年刊)でも明らかにされた。しかし『七年史』はそれより早く明治三十七年八月に啓成社から刊行されたばかりか、約五百頁の『京都守護職始末』に対して上下巻約二千頁のボリュームを誇っていた。その意味でこのたびの『七年史』の復刻には、いよいよ真打ち登場の趣がある。

 ちなみに著者北原雅長は、会津藩家老神保利孝の次男に生まれ、やはり家老職たり得る名門北原家を継いだ人物である。長兄神保修理は、鳥羽伏見の開戦前夜、最後の将軍徳川慶喜に東帰を進言した責任を問われて切腹の主命を拝受。利孝もまた鶴ヶ城への籠城戦が開始された慶応四年八月二十三日、追手の甲賀町郭門が破られた責任を取って白刃し、修理の妻お雪は大垣兵に捕われたのを恥として喉を突いた。

 しかるに雅長は、神保利孝・修理の死を記述する際にもふたりが自分の親族であることには触れず、主情を排した筆法に徹している。『七年史』全二十巻に凛乎たる気品が漂うのも、著者が「史料をして語らしめよ」の鉄則を良く守りぬいているからだ。会津滅藩ののち工部省に出仕、秋田県権大属、長崎県少書記官、初代長崎市長を歴任した雅長は、官製の順逆史観に抗し、幕末の会津藩の立場を閲明するのに最適な文体を思案した結果、右のような筆法を選択したものと思われる。
「このような著作者の経歴からして、本書は同時代人の証言としても読むことができる」(『国史大事典』)という評があるが、この「証言」が会津藩雪冤の書の嗜矢となった点にこそ、本書の歴史的意味がある。前述の啓成社版、その後出された復刻版(「続日本史籍協会叢書」所収の四冊本、臨川書店刊の二冊本)も入手困難な今日、堅牢美麗な本造りで知られたマツノ書店版が世に出ることは私の喜びとするところである。
(本書パンフレットより)