勇猛、壮絶、悲哀、無念、美談
白虎隊員及び殉難女性の個々について世に紹介した唯一の文献
会津白虎隊十九士伝
 宗川 虎次
 マツノ書店 復刻版 *原本は昭和7年
   2006年刊行 A5変形(約11.5×21.5センチ) 上製函入 246頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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■ 復刻に際して、B6判変形の原本を、A5判変形に拡大しました。「内容見本」でもおわかりの通り、特に「割注」を読み易くするためです。
■ 本書は大正十五年以来毎年のように版を重ねておりますが、このたびの原本は、最も流布していると思われる昭和七年発行の第六版です。
■ 巻末付録 に『羅馬市寄贈の白虎隊記念碑』(20頁)、『殉節婦人の事蹟』(荘田三平・編著、山川健次郎・補修 84頁)

 『補修 会津白虎隊十九士伝』復刻に寄せて
   元会津史談会会長 畑 敬之助

@もう一つの白虎隊と少年武士

 そもそも白虎隊といえば、飯盛山で白刃した十九人ばかりが突出して有名になったが、実はそれは白虎隊の一部に過ぎない。
 会津藩の正規軍歩兵隊のなかで、年齢別に一番若いものを白虎隊と言い、十六、七歳である。上級士族の子弟の隊を白虎士中(しちゅう)隊と言い、中級士族のそれを白虎寄合(よりあい)隊、同じく下級士族のそれを白虎足軽隊と言った。各級の士中・寄合白虎隊は二隊ずつあって、一番隊二番隊と呼ばれた。
 世上有名な飯盛山での自刃白虎隊員十九人は、士中二番隊所属である。
 次に各種白虎隊の活動面に目を向ければ、足軽隊はいまひとつ掴めないが、士中二番隊が八月二十二日に白河口・戸ノロ原へ出陣して飯盛山の悲劇に至ったことは、周知の通りである。士中一番隊は藩主を護衛して越後戦線を視察、その後は籠城戦に参加した。
 ここで特記すべきは寄合白虎隊のことである。この集団は早くも七月十二日に出動命令が下り、一、二番隊計百六十人が越後口戦線に投入された。そして八月初めからは先輩諸隊に交じって実戦に入り、二十六日新潟県津川撤退後は喜多方方面、さらには九月十五日以降の籠城戦にも転戦参加し、三十一人の犠牲者を出した。本書はこの事実をも正面からとらえて記述する。今日飯盛山の白虎隊士の墓は、正面に自刃十九士が眠り、参拝者の足はそこに集中するが、実は右手の三十一基の墓こそ、隠れた勇者・寄合白虎隊士のものである。本書が「君国に殉じたる烈士」と讃える「もうひとつの白虎隊」がそこに眠っている。

 ところでこの戦いには、白虎隊の名は冠せられないけれども、さらに「白虎隊の仲間」とも称すべき人々がいた。年端が十六歳に達しないため白虎隊に入れなかったり、その他の事情で白虎隊とは別行動をして殉じた少年たちである。本書にはこの勇敢な少年たち五十九人を一項目にまとめて記してある。なお「会津弔霊義会」は平成十三年十一月、自刃白虎隊士墓の左隣りに、その後の調査により三人を追加して合計六十二人とし、「少年武士慰霊碑白虎隊外戦死者十四歳より十七歳」なる慰霊碑を建てて供養を始めた。

A 白刃白虎隊士、十九人すべての横顔
 さて古来、戊辰戦争関係の文献資料は汗牛充棟ほどあり、うち会津人による名著も、このたびマツノ書店から復刻される『七年史』(北原雅長著 明治三十七年刊)をはじめ『京都守護職始末』(山川浩著明治四十四年刊 平成十六年マツノ書店復刻)、『会津戊辰戦史』(山川健次郎監修 昭和八年刊 平成十五年マツノ書店復刻)、『会津戊辰戦争―白虎隊・娘子軍・高齢者之健闘』(平石弁蔵著 大正六年刊)等がある。でも残念ながら大著に過ぎて、「もうひとつの白虎隊」や「少年武士」のことは行間に散見させるに終っている。他方その後、「白虎隊」を書名に掲げる著書も多く出たが、いずれも隔靴掻痒のそしりを免れない。
 本書は手前勝手な一本釣りではなく、多少類型的手法で、これら十九人のすべてと生き残った飯沼をもふくむ白虎隊員の横顔を、可能な限り詳細に紹介している。その内容は「生い立ち、家族の系譜、文武の諸業、儒教的徳目基準の人柄、日常的・非日常的行為、首途における別離の態様、戦場風景、携帯武器、各種服装、封建制人事の問題、生死の狭問」等々にわたる。それらを通じて隊士相互間のみならず、帰納的に当時の時代背景が浮かびあがっており、さらに現代の若者と比較するのも非常に興味深い。

B 会津の女性、「今は!」の選択
 日本の武家社会では女性は一見隷属を強いられてきたようにみえる。しかしここ『殉節婦人の事蹟』にみえる婦人の姿はそれだけではない。本書の百五十頁以下の叙述は、かなり悲壮的ではあるが、そのことを示す。ここでは、会津女性が「今は」の際にどのような死に方を選んだかにより、ふだんの生き方の中に高貴な思想と教養があったことを垣間みせてくれた。女性の純粋さ・一途さ・勁(つよ)さはナイーブで美しい。これからの男女共生社会にも残したいものである。
 最後に、本書の著者・宗川虎次(むねかわとらじ)は、戊辰戦後の明治四年に会津藩士一八六人を率いて北海道に渡り、余市の開拓を成功させた、元砲兵隊長・宗川茂友の次男である。虎次は生来足の病で歩行不自由のため、茂友は明治十一年、九歳の虎次を連れて会津へ帰郷した。虎次は刻苦勉励のすえ漢学・儒学の教師として自立し、私塾を開いた。教えを乞う者ひきもやらず、門前市をなしたという。彼の学殖の深さは、今日その撰文にかかる諸種記念碑が、会津一円に二十数基現存することでも立証できよう。
 ところで本書執筆の動機は、虎次が帰郷後のあるとき、家宝とされていた穂積朝香描く「白虎隊十九士自刃の図」(自刃の図第一号)にいたく感動したことによる。以来彼は遺族を訪ね、涙と共に事の詳細を聴き、東西に史実を求めて本書を書き上げたのである。
 小冊子ながら、宗川虎次が畢生の情熱をかけ、山川健次郎が画竜点晴とも言える見事な「補修」をおこなったこの労作。ぜひご感得を乞いたい。
(本書パンフレットより)