元勲・大久保利通宛の書簡、約4000通を編纂した根本史料 | |
大久保利通関係文書 全5冊+人名索引 | |
立教大学日本史研究室 編 | |
マツノ書店 復刻版 | |
2008年刊行 A5判 上製函入(索引は並製) パンフレットPDF(内容見本あり) | |
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見直しが進められる大久保利通像 『大久保利通関係文書』復刻版の刊行に寄せて 京都薬科大学准教授 鈴木 栄樹 |
日米開戦前夜に『外政家としての大久保利通』を執筆した清沢洌は、「恥ありといへども忍び、義ありといへども取らず」(「征韓論に関する意見書」)とする大久保に仮託して、リアリズムの政治姿勢を時の為政者へ訴えかけていた。しかし、その後、大久保のリアリズムは正当に評価されることなく、むしろ一般には、「非情」で「冷酷」な「専制的官僚」という大久保利通像をつくり出してきた。そうしたなか、この一〇年ほどの間に、大久保利通像の見直しが着実に進んできた。「人望」のある「有力な政治的リーダー」(佐々木克『大久保利通と明治維新』1998年)、「熟考と果断の政治家」(勝田政治『〈政事家〉大久保利通』2003年)という評価への転換である。現代日本の拙劣な権力闘争を幕末維新期に当てはめ、あるいは権力と民衆という単純な二項対立を措定してしまえば、大久保利通は岩倉具視とともに格好の権謀術数家と錯覚される。そうではなく、変革期におけるあるべき政治的リーダーを求めるならば、大久保利通こそそれにふさわしい人物と評することができる。私自身、かつて岩倉使節団編成過程の通説を批判するなかで、前者のような見方に疑問を呈した一人である。 大久保家が所蔵する大久保宛書翰や第三者間書翰を編纂した『大久保利通関係文書』との本格的な出会いは、大学院時代に遡る。京都大学文学部所蔵になる薩摩藩士吉田清成の関係文書を整理・刊行する作業に携わるなかで、大久保書翰を中心に編纂された『大久保利通文書』などとともに、本書にはたいへんお世話になった。残念ながら吉田書翰は含まれていないが、『大久保利通文書』に比べて本書には幕末期の薩摩藩関係諸家の書翰が多く収録され、慶応元年に吉田や森有礼らの留学生が英国へ送られる前後の同藩の動向を知る手だてとなった。また、明治三年末のアメリカからの帰国以来、吉田を重用した大久保が卿を務めた大蔵省を知る上でも、本書は欠くことのできない書翰集であった。 大久保の周辺には、吉田清成のような薩摩藩出身者以外にも多くの人材が集まった。その一人で、本書に西南戦争期の書翰二〇余通が収録されている前島密は、大久保について、「公務上のことは極めて忠実」で、「よく人にも計り、人の言をも容れた人」であるが、裁決した以上は躊躇することがなかったと述べ(佐々木克監修『大久保利通』)、こうした点が大久保の「人望」を支えていたことを窺わせている。 実際、西南戦争勃発の時期に大久保に採用されて内務省にはいった旧彦根藩士の西村捨三も、かつての讐敵薩摩藩の大久保を「公正剛毅、申分なき大宰相」と評していた。その大久保が、翌年五月に非命の最期を遂げたおり、西村は、先主直弼の遭難と重ね、「何とも痛恨の至り」と嘆き、終焉の地清水谷に「贈右大臣大久保公哀悼碑」を建立するために尽力した(『御祭草紙』)。鉄道や治水・港湾事業に専念した西村は、大久保が死の直前に述べた第二期の課題、すなわち「内地を整ひ、民産を殖する」(「済世遺言」)という路線の継承者の一人であった。 マツノ書店からはすでに『大久保利通文書』『大久保利通日記』『大久保利通伝』など、一連の大久保利通関係基本史料が復刻されている。今回復刻される『大久保利通関係文書』全五巻は、それらの掉尾を飾る仕事として、満を持しての刊行と聞いている。本書には、岩倉具視の542通を筆頭に二〇年間にわたる約4000通の書翰が収録されている。大久保利通関係の史資料は、現在、鹿児島の黎明館、国会図書館県政資料室、歴史民族博物館の三ヵ所で所蔵されている。刊本に未収載の史資料についても、各機関での目録作成により、利用が容易になっている。大久保利通というリアリズムの政治家は、十全に開花した姿を見せることなく無惨にも摘み取られてしまった。おりしも今年は大久保暗殺から一三〇年目にあたる。勝田政治氏による「人名索引」が新たに付された本書の復刻が、大久保利通とその時代、さらには大久保の感化を受けた人々に関する研究へのさらなる弾みとなることを願って推薦の辞とする。 (本書パンフレットより) |
『大久保利通関係文書』の復刻に寄せて 金沢大学人間社会学域学校教育学類教授・同附属高等学校長 奥田 晴樹 |
大久保利通に関する歴史的研究に実証的基礎を提供する公刊された史料集としては、日本史籍協会編になる『大久保利通文書』全十冊(1927〜29年初刊)と『大久保利通日記』全2冊(1927年初刊)、鹿児島県史料の『大久保利通史料』一(1987年刊、二以下は未刊)と、今回復刻される立教大学日本史研究室(三以下は立教大学日本史研究会)編になる『大久保利通関係文書』全五冊(1965〜71年刊)がある。 『大久保利通文書』は、嘉永四年(1851)から明治十一年(1878)に至る時期の、大久保自身の書翰・建白書・意見書・覚書などを編年で収録し、大久保自身の日記や関係者の書翰などの関連史料を参考として付載している。これについては、マツノ書店が勝田政治氏の編になる人名索引を付して、すでに復刻している。 『大久保利通日記』は、原本が火災で焼失していたが、複写本を校合して補正したもので、安政六年(1859)から明治十年(1877)に至る時期の分が収録されており、その簡明な記述は饒舌な木戸孝允の日記とよく対比される。 『大久保利通史料』一は、『大久保利通文書』に収録された大久保の書翰と『大久保利通日記』を軸に、そこに未収録のものを加えて、書翰と日記の完全版を目指して編纂されている。完成すれば、おそらくは戦後になる大久保利通史料集の決定版となったであろうが、二以下が二〇年の長きに亘って未刊であることが惜しまれる。 『大久保利通関係文書』はこれらとは趣を異にし、大久保宛の書翰を収録したものである。利通の孫にあたる故・利謙(としあき)氏の立教大学教授退任を記念する編纂・刊行事業であり、五十音順に秋月種樹から渡辺昇までの一八七名の来翰者ごとに、編年・年欠編月・年月欠編日の順で配列した約4000通の書翰を収載している。来翰集であることから、大久保自身の動静が分かる手がかりとなるだけではなく、幕末維新期の政局に棹さす人々の動静を知る上でも貴重な史料集となっている。 筆者自身の経験では、島津久光の側近で初代金沢県参事・初代石川県令となった内田政風(まさかぜ)の事歴を探索する過程で、この『大久保利通関係文書』を参看し、大久保宛の一六五通と他者宛のものなど一六通、合わせて一八一通もの書翰に出会った。内田については、近年になる『近現代日本人物史料情報辞典』全三冊(伊藤隆・季武嘉也(すえたけよしや)編、2004〜07年刊)でも取り上げられておらず、その動静をこれだけまとまった形で知ることのできる史料集は、鹿児島県史料の『玉島島津家史料』全十冊(1991〜2000年刊)を除けば、他に見あたるまい。内田のような例は他にもあり、また別の利用法も多々あろう。 『大久保利通関係文書』は、記念事業の出版物という性格のためか、初刊以来、再刊されておらず、長らく入手が困難な状態にあったが、今回マツノ書店から復刻される運びとなったことは、学界にとって誠に慶賀すべきことと思われる。マツノ書店は、『大久保利通文書』のほか、大久保の代表的な伝記である勝田孫弥著『大久保利通伝』全三冊(1910〜11年刊)も先に復刻しており、斯界に貢献するところは少なくない。 このような大久保に関する研究条件の改善が、大久保利謙・毛利敏彦・佐々木克(すぐる)・勝田政治らの諸氏によって開拓されてきた研究水準を継承・発展させる後進の出現に繋がることを大いに期待したい。 (本書パンフレットより) |
キャッチボールの面白さ 萩市特別学芸員 一坂太郎 |
手紙というのは、時代の空気を知る上でなによりも欠かせないし、内容が天下国家にかかわるなら、絶好の史料になることもある。維新の元勲と呼ばれる人々の書簡集は、維新から半世紀をへたころから堰を切ったように世に出始めた。 維新の三傑を例にとれば、平凡社が大正十五年(1926)から昭和二年(1927)にかけて『大西郷全集』全三冊を、日本史籍協会が昭和二年から四年にかけて『大久保利通文書』全十冊と、昭和四年から六年にかけて『木戸孝允文書』全八冊を世に出している。今日我々が三傑の生の声に接することが出来るのは、これら編纂者たちの苦労あればこそだ。それがどれ程大変な作業であるかは、私も史料集(『高杉晋作史料』全三冊)を編纂した経験から、少しは分かっているつもりである。 ただ、右の三傑の史料集は編まれた時代的制約もあり、故人を偲び、顕彰するための「遺稿集」という側面を、大なり小な備えていた。だから研究のための史料集として使おうとした場合、不便を感じないわけではない。 そのひとつが、原則として発信者の手紙が並ぶだけなので、内容が一方通行になりがちなことだ。会話のキャッチボールにならないのである。『大久保利通文書』などは「参考」として、たまに来翰なども紹介してはいるが、それでも十分とは言い難い。 このたび復刻される立教大学日本史研究室編『大久保利通関係文書』全五冊は、まず、こうした不満を解消してくれる。原版は昭和四十年から四十六年にかけ、吉川弘文館から出版された。これを先年復刻された『大久保利通文書』と合わせ鏡のようにして読めば、大久保とその相手の文通がある程度、理解出来よう。 たとえば明治四年(1871)、廃藩置県の準備が進むころのこと。大久保が木戸あて書簡に、「国家の大事」だから旧藩主毛利敬親を上京させて欲しいと懇願すると(三月十八日『文書』)、木戸は敬親は病気が重くなり、ついに没したと大久保に返事をする(四月五日『関係文書』)。事実、敬親は三月二十八日、山口で他界していた。手紙から、両巨頭の受けた衝撃の大きさが推測出来る。これは、大久保・木戸ともに来翰をまめに保存する人だからこそ可能だった。来翰を保存する習慣が無かったと思われる高杉晋作や坂本龍馬では、こうはいかない。ちなみに『大久保利通関係文書』に収められた大久保あて木戸書簡は七十八通、中には『木戸孝允文書』に収録洩れ分もある。 『大久保利通関係文書』が嚆矢となったのか、近年になりようやく、近代政治家への来翰が編纂、出版されるようになった。長州出身の元勲で言えば伊藤博文・山田顕義・山県有朋・品川弥二郎、そして木戸孝允等々への来翰だ。ただ、伊藤や山県のもとに集まった来翰は活字になっても、彼らが発信した手紙を丹念に集めた「遺稿集」的な史料集の方が、いまだ出ていない。あまりにも膨大な手間と時間を要するからだと思われるが、ビッグネームにもかかわらず、誰も手をつけないようだ。大久保と木戸のように、会話のキャッチボールが再現出来ないのかと、思うとちょっと残念でもある。 (本書パンフレットより) |
菊池寛と大久保利通 曾孫 大久保 利泰 |
平成19年十二月七日の夜、ホテル・オークラ(東京・港区)の大広間で第五十五回菊池寛賞の授賞式が行われた。著名な方々並ぶ中でマツノ書店の松村久氏の姿が一際大きく感じたのは私だけではなかったと思う。 約三十年にわたり「明治維新史に関する貴重な文献二百点以上を復刻出版し、社会的文化的貢献をおこなっている」ことが評価され、このたびの受賞となった。 マツノ書店はご承知の通り古書を扱うかたわら幕末維新史料を独自の方法で復刻し、近年では薩摩にも目を向けられ、そのご縁で曾祖父大久保利通関連の史料復刻につながったのである。少しでも多くの方に史料の提供をしたいと思っていても、なかなか実現しないものだが、マツノ書店さんのお陰様で見事に思いが叶った。 今回の復刻『大久保利通関係文書』(全五巻)は昭和四十年から六年かけて立教大学日本史研究室編集により吉川弘文館から刊行されたが、その第五巻に挿入されたパンフレットが手元にあり読み返してみた。「史料の原稿化、再点検、原本校正という作業が予想を超える難事業」と書かれており、全四巻・二年で完結の予定が全五巻となり完結まで六年を要した。当時のご苦労は並大抵のことではなかったと思う。 その熱意とご苦労を礎として、さらに松村氏の心意気により「大久保利通シリーズ」の最後を飾るこのたびの復刻に、それも菊池寛賞受賞という素晴らしい評価が花を添えられ、望外の喜びとなった。 菊池寛と大久保利通。活躍した時代・分野が異なるこの二人が思わぬところで結ばれていることは不思議な縁以外の何ものでもない。 松村久氏への祝意と今後のご活躍を記念して筆を擱く。 (本書パンフレットより) |