敗者の描く戊辰戦史 91年ぶりの復刻 | |
慶応戊辰 奥羽蝦夷戦乱史 | |
佐藤 浩敏 | |
マツノ書店 復刻版 ※原本は大正6年 東北史刊行会 | |
2008年刊行 A5判 上製函入 1038頁 パンフレットPDF(内容見本あり) | |
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『奥羽蝦夷戦乱史』 目次 |
第一巻 維新の巻 幕末の薩長土肥 激論党の奮起と江戸幕府 怨恨の標的松平京都守護職 浪士の活動 将軍上洛と攘夷熱 足利木像梟首事件 英国の抗議と攘夷問題 姉小路少将郷の暗殺 会津薩摩の同盟 激論党の大和行幸密計 中川宮の果断と激論党 七郷の不信任と其西奔 長州事件の先駆 中川宮暗殺の隠謀 長州事件の顛末 ①長藩の清側論 ②長藩の出兵 ③京都方の評定 ④長藩の侵撃計画 ⑤長軍の突撃 長州砲撃不法事件 幕閣の混乱と薩長の形勢 ①第一回長州征伐の紛乱 ②長州藩の激論統一 ③幕閣有司の内訂 ④薩長同盟と長州毒征 働幕運動の進展 ①将軍家茂の死去と薩州藩の態度 ②長州藩飛躍の準備 ③中川宮放逐と守護職輪番の魂胆 孝明天皇の崩御 激論党と京都守護職 大政奉還の裏面 ①討幕の陰謀 ②幕末政局の裏面 ③小御所に於ける論闘 幕府党撲滅の魂胆 ①薩州首魁の宣言 ②極秘の勅命 ③薩長の挑戦画策 幕臣の憤起 鳥羽伏見の戦 征東総督の進発 徳川の末路 ①江戸城の大会議 ②西軍三道よし江戸に迫る ③徳川の拠置 ④江戸城の明け渡し 政府の時事(江戸平定当時) 第二巻 奥羽の巻. 上野東叡山旗本の血盟 会津藩の帰国 会津追討問題 鎭撫使奥羽下向顛末 奥羽同盟に至りし事情 ①会津藩の謝罪 ②奥羽列藩の会庄庇護顛末 ③奥羽問題と参謀の密計 ④鎮撫参謀の遭難事件 奥羽同盟 奥羽軍事局と防戦計画 追討軍将一班 徳川脱藩浪人 関東戦史 ①常総方面の接戦 ②宇都宮本道の接戦 ③上野東叡山の戦 ④輪王寺宮殿下の御末路 ⑤日光方面の接戦 奥州白河ロ戦史 ①自河関門の戦 ②棚倉の戦 ③三春藩の降順顛末 ④本宮の防備と須賀川の陣 ⑤二本松の戦 ⑥守山藩と白河ロの城代(増補) ⑦福島近郷の動静(増補) イ福島藩の動静 ロ兵乱中の盗賊図 ハ桑名候と奥羽軍 奥州平潟口戦記 ①岩城の戦 ②濱通奥羽軍の動揺 ③仙台国境駒ヶ峯の戦 北越戦史 . ①奥羽同盟と北越諸藩 ②北越の接戦 出羽戦史 ①庄内追討問題 ②羽州の接戦 南部戦史 ①盛岡藩の喚起と弘前藩 ②羽州大館方面の接戦 ③陸奥東海岸の接戦 会津包囲総攻撃 ①西軍参謀と総督府軍令 ②会津の防備 ③会津攻囲の進撃 ④会津の戦 ⑤会津の籠落 奥羽総軍臨終の大計画 奥羽列藩の謝罪顛末 維新の最大疑獄 政府の時事(自奥羽平定 至蝦夷出征) 第三巻 蝦夷の巻 徳川海軍の品海脱走 品海脱走の本意 脱藩軍団の蝦夷侵略 ①蝦夷地割拠の約盟 ②脱藩軍の侵略戦 蝦夷脱藩政応 ①五稜郭 ②蝦夷国の行政組織 ③蝦夷立国の奏聞と通牒 蝦夷地行政委任問題 蝦夷地討伐の風雲 南部宮古湾の凶変 西軍の上陸と蝦夷軍の密使 江差・福山方面の接戦 二俣ロの要塞 ①二俣ロの戦 ②二俣ロの敗報 木古内の要塞 ①木口内侵入と蝦夷軍の防備 ②木古内の戦 奥羽援軍援軍と函館沖の海戦 矢不来の戦 富川の戦 有川の戦 蝦夷軍の夜襲と内憂 函館湾の砲撃 大川・七重濱の戦 函館の陥落 ①包囲軍団と函館の防備 ②函館の戦 五稜郭の包囲総攻撃 ①蝦夷籠軍の苦境 ②降服勧告の顛末 ③千代ヶ岡の追落 ④五稜郭の瓦解 政席の時事(蝦夷平定当時) 附録 戊辰順逆論 ①鶴城懐古 ②攘夷非尊皇 ③誠忠か凶暴か ④帝・深厚なる御親任を会津公賜ふ ⑤容保公の忠勤 ⑥偽勅濫出 ⑦誠忠は是逆賊 ⑧伯夷盗跖同一丘 ⑨結論 親子内親王の訓諭 輪王寺宮殿下奥州御動座布告文 輪王寺宮殿下の檄書 奥羽同盟叛逆謀臣の弁明書 敗賊武士の謹慣日記一斑 |
『慶応戊辰 奥羽蝦夷戦乱史』のこと 作家 中村 彰彦 |
かつて歴史を叙述するには、編年体と紀伝体のふたつの方法があるといわれていた。編年体はその後やや変化・発展して通史を俯瞰する書き方となり、紀伝体もやや様変わりして、ある時代のある個人ないし集団の視点に立ち、そこから歴史を語っていく手法となった。 幕末戊辰史をテーマとする系列でいえば、日清戦争のころ出版された川崎紫山『戊辰戦史』全十二巻や昭和四十三年(1968)刊の大山柏『戊辰戦役史』は通史に属し、すでにマツノ書店が復刻した『修訂防長回天史』『会津戊辰戦史』『仙台戊辰史』などは後者の手法によって叙述されている。 大正六年(1917)、東北史刊行会から出版された佐藤浩敏『慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史』は、このような分類でいえば前者に属し、著者もそれを意識してか一部で川崎紫山の文章を地の文に溶けこませている。 それはそれとしても、本書を読む前にわれわれが念頭に置いておくべきは、明治時代から昭和二十年夏の敗戦まで、日本の史学界と文部省が官製史観として順逆史観を打ち出していたことであろう。「順」は訓読みすれば「したがう」であり、天皇家に忠実だった者が「順」であるとされた。その対立概念の「逆」とは逆賊のことだから、官製順逆史観のもとで戊辰戦争とは「天皇家に忠義を尽くした諸藩が逆賊を討ち滅ぼした戦いであった」と規定されたわけである。 薩摩、長州、土佐、佐賀の諸藩を中心とする戊辰戦争の勝者たちは、このような歴史観を奇怪なものとは考えなかった。もとをただせばこの史観は薩摩出身の重野安繹(帝国大学文化大学教授)や佐賀出身の久米邦武(同)ら修史事業のリーダーたちが唱えた説であったから、戊辰の勝者に甘く、敗者には苛酷なものとなったのだ。 そのため旧幕臣および奥羽越列藩同盟参加者とその子孫にはこの史観に反撥する者が多く、元会津藩士だった北原雅長と山川浩は、これもまたマツノ書店が復刻済みの『七年史』上下巻(明治三十七年〈1904〉)と『京都守護職始末』(同四十四年〈1911〉)をそれぞれ刊行し、幕末に孝明天皇が最も信頼していたのは会津藩主松平容保であったことを史料によって証明してみせた。 本書の著者佐藤浩敏は旧会津藩領の猪苗代の出身だからか、北原雅長と山川浩の衣鉢をついで順逆史観を否定するばかりか、薩長その他の戊辰の勝者は明治天皇にとって君側の奸であったと烈しく主張し「官賊」ということばすら用いている。これは戊辰戦争中に奥羽越列藩同盟の内部で使われたことばで、官軍と称する敵は真の王師ではない、官を名乗る賊徒だ、という意味にほかならない。 大正六年は、明治二年五月に戊辰戦争が終結してから四十八年目にあたる。およそ半世紀ののちにもあえて官賊ということばによって戊辰史を語り直そうとする姿勢には、たしかに辟易する読者もいるかも知れない。 しかし、関ヶ原の戦い以降まったく戦乱を経ることなく幕末に至った奥羽越諸藩は、賊徒首魁と名指されて討伐すべき対象とされた会津藩に総じて同情的であった。奥羽越列藩同盟が薩長同盟のような攻守同盟ではなく、いうなれば友情同盟であったのもそれゆえと考えられる。 とはいえ当時の新政府は開戦一点張りに終始し、「奥羽皆敵」と断じて奥羽越列藩とともに新国家を育ててゆこうという度量には決定的に欠けていた。それが「白河以北一山百文」ということばに象徴される東北蔑視を助長し、奥羽越列藩の故地は開発の立ち後れに苦しみ続けたからこそ、順逆史観のアンチテーゼとして官賊史観もまた生まれたのである。 以上のような視点から語られていることを本書の最大の特徴とすれば、第二の特徴は幕末の尊王攘夷運動の激化はじまり、箱館五稜郭の陥落におわる戊辰戦史を実に詳しく描いていることであろう。関東戦史、奥羽白河口戦史、奥州平潟口戦史、北越戦史、出羽戦史、南部戦史、会津包囲総攻撃とつづく第二巻奥羽の巻、榎本脱走軍による蝦夷地侵入から降伏までを叙述する第三巻蝦夷の巻は、歴史読物として読んでも良くできている。 特に筆者が懐かしさすら感じたのは、作家として出発して間もないころに描いた会津藩家老佐川官兵衛(『鬼官兵衛烈風録』の主人公)、桑名藩士立見鑑三郎のちの尚文(『闘将伝』の主人公)、人見勝太郎・伊庭八郎・林昌之助の三人の旧幕脱走遊撃隊長(『遊撃隊始末』の主人公)らの動きがよく書きこまれていることであった。特に第三巻、二俣口の要塞の章に、 「二昼夜に亘る攻防の激戦、蝦夷軍の一銃千発を放つ、銃身既に熱し、冷水を桶に汲み取り来つて、砲銃を是に浸しつつ、発銃益々頑強也」 とある部分などは、きわめて正確な記述といってよい。 著者は在野の人だったらしく、使用した史料名を明記する手法を採ってはいない。本書の刊行後に再発見された史料もあるため、今日の目から見ればいささか疑問符をつけたくなる部分もないではない。 だが、二俣口の要塞の章のほかにも、奥州の住人たちが新政府軍に夫役を命じられて辛酸を舐めた事実、三春藩の背盟の論理、越後鯨波の戦いなど当時よく知られていなかったことが丹念に書きこまれていて、著者のこの叙述に賭けた熱い思いがひしひしと伝わってくる。 巻末に付録として添えられた「戊辰順逆論」に見える「逆賊西郷の遺子は今や侯爵」なのになぜ東北差別がつづくのか、という論理からは、 「天道是か非か」 と『史記』に書きつけた司馬遷の思いを想起する人もあるかも知れない。 古書店でもまず見掛けず、もはや素姓さえわからなくなっている幻の著者による史書を手にすることができるとは、まことに喜ばしい限りである。 (本書パンフレットより) |
敗れし者の戊辰戦史 作家 秋山 香乃 |
いわゆる敗者の歴史である。 幕末から明治へ移行する戊辰の年、薩長を中心とした新政権に異を唱えて抗い、生き残りを賭けて干戈を交えた人々がいた。会津、奥羽越列藩、彰義隊、榎本武揚率いる函館政府……。彼らは、朝廷を味方に錦旗を翻して「官軍」と呼ばれた新政府に弓引き、「賊」として「征討」された者たちだ。 だが、本当にそうなのか。歴史を一方向からのみ捉えれば、確かにそれは一つの真実と言えるだろう。が、本書を編んだ佐藤浩敏は、あえて目立つように「叙言」と銘打ち、枠組みまでし、一ページを取って次のように述べる。彼らは「皇室、錦旗、国憲等の如く、国家的に対敵するには非ず」。ひとえに「君側の奸を除く薩長征伐の一念に在り」。 これこそが当時、心ならずも「賊軍」の二文字でくくられ、来たる新しい世の中の随所で敗者の現実を辛酸をもって嚙み締めざるを得なかった人々の、まさに魂の叫びの代弁だったに違いない。――我らは帝に弓を引いたのではない、薩長と戦ったのだ。筆者佐藤は続けて言う。だからこそ本書では、賊軍を地方名で、官軍を西軍と呼ぶことにした、と。 さて、本文を読みだすと、まず純粋に読み物としての面白さに惹き付けられる。会津北越戦での鬼官兵衛(佐川)の活躍、若き軍事総督山川浩の彼岸獅子による敵陣突破、接舷襲入攻撃を実行した海戦アボルダージュ、二股の要塞における土方歳三と駒井政五郎の対決、隻腕になってもひるまなかった伊庭八郎の不撓不屈、伝習兵率いる大鳥圭介の意地をかけた函館での最後の抵抗……。どれをとっても胸躍らぬ場面はない。 本書の多くはこのように戊辰の戦の活写に費やされているが、黒船来航から始まり戦に至るまでの過程も、政治的背景から個人の思惑まで包括させ、生き生きと描かれている。幕末期に起こった事件は、池田屋事変や禁門の変はもちろんのこと、足利木像梟首事件や生野の変をもこぼさず取り上げ、当時より諸説伝えられているものは、それぞれの説が紹介されてあるのも嬉しい配慮だ。見えにくい朝廷内の公家の動きや裏事情が惜しげもなく披露され、各事柄の因果関係や動機が掴みやすいのも特徴だ。ことに「維新史上最大の疑獄」と本書が述べる中川宮が失脚して配流に追い込まれていく様は克明である。 鳥羽伏見の戦いから函館戦争まで、戦場ごとに刻々と日付を追って書きすすめられているため、繁雑になり易い戦記もわかり易く、対句が多用された漢文調の戦場描写は、実にリズミカルで力強い。この名文に触れるだけでも一読の価値があるだろう。 会津が恭順を示したにも関わらず、スケープゴートとして利用するため、徹底的に叩こうとする「西軍」のやり口に、道義的に頷くことができなかった近隣諸藩の、そうはいっても保身に揺れる心理も生々しい。しかし最後は長州から派遣された世良修蔵殺害という引くに引けぬ事態を巻き起こし、会津と共に「西軍」に対峙した気概と、戦に突入せざるを得なかった切なさはいかほどのものか。佐藤はそれらを、孝明天皇が残した宸翰の存在を根拠に会津の正義を説きつつ描く。 筆者自身が「敗者を主意と為し、勝者を客位に置」き敗者側の古記に史料を求めた為に、「往々にして偏見誤断の咎あるは又免れ難し」と断っている通り、本書に描かれるのは敗者側からの一方的な視点とはいえ、彼らが何を見て何を感じ、いったい何故それほどまでに遺憾に思い、武器を取って立ち上がったのか、我々は垣間見ることができるだろう。 本書が世に問われたのは、戊辰の戦よりおよそ半世紀ほど過ぎた大正六年のことである。筆者佐藤は風化する前に、敗者の生の声を形に残したかったに違いない。本書は、著者自らが述べる通り偏った記述もある。あきらかな誤りも散見できる。だが、著者の最も描き伝えたかった「敗者の見たる戊辰史」として、彼らの当時の気分や心理は痛いほど読み手に迫ってくる。 歴史は人の心が作るのだ。そうであれば、この書は多くの誤記をもってしても、間違いなく真実の一端を見せることに成功していると言えるだろう。多くの日本人に今後も読み継いでいって欲しい一冊である。 (本書パンフレットより) |
敗者側に徹した強烈な一冊 一坂 太郎 |
『慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史』は、めったに古書市場に出て来ない稀覯本だそうである。会津鶴ケ城が落ちて五十年後の大正六年(1917)九月、東京の東北史刊行会から初版が出版された。翌七年四月には再版が出ているから、一部の地方や関係者の間では熱心に読まれた本なのかも知れない。著者佐藤浩敏が何者なのか定かでないが、どうも会津かその周囲の人らしい。 菊判九百数十頁、手に取るとずしりと重い。巻頭言では最初の一行目から「本書は敗者を主位と為し、勝者を客位に置きて、編述何れも敗士の古記に史料を需めたる所」と、その立場を明記する。 続く凡例にも「敗者を基本と為したる所」「敗士の顛末書」「専ら敗士の見たる戊辰史を作るの目的」等々と、著者の強烈な意志を感じさせる言葉の数々が並ぶ。 これは、公正無私を謳った歴史書ではないのだ。著者自身、頭からそれを否定している。そうした態度には驚きと共に、ある種の勇気と潔さを感じずにはいられない。 当然ながら歴史書とは、公正無私の姿勢をもって編まれねばならない。その姿勢に乏しい歴史書は、歴史書として評価が低いに決まっている。 しかし、完全な公正無私の歴史書など存在するはずがないのもまた、現実だ。 いまでこそ、皇国史観や王政復古史観、薩長史観などと一蹴される戦前に書かれた幕末維新史も、当時はそれが正統とされ、公正無私だったのである。それらに対して、戦後という安全圏から非難の矢を一斉に浴びせかけた諸先生方も、その場に身を置いていたなら、果たして何人が抵抗出来たか怪しいものだ。それどころか、「おかしい」ことを「おかしい」と思える感覚すら持ってなかったのではないか。 だからこそ、勝者の維新史が「正義」としてまかり通っていた時代に、はっきりと反対の立場を表明した『慶応戊辰奥羽蝦夷戦乱史』は注目に値する。半世紀を経て、なお消えなかった東北人の怨念が、この一冊に詰まっているのだ。 巻頭言や凡例に圧倒されるが、当然本編も敗者側の論理で貫かれている。それも、時にはかなり感情的だ。 例えば、江戸開城の不満分子に「然るに牽強し、附会し、是に朝敵の名を附せるもの、帰する所は、薩長の奴輩が、畏れ多くも、幼帝を挟んで朝憲を弄するに由る、朝命は服するも、薩長の矯命は断じて服す可らず」などと叫ばせる場面がある。こうした史料から抽出したのか、著者の思いなのか、はっきりしない過激な台詞が、各所に散りばめられている。 あるいは、旧幕府陸軍の大鳥圭介が浪士を集めるために起草したという檄文は、史料的に貴重なもののようだ。「光陰矢の如く戦後将に五十年、今日此所に晒け出す」としてトピック的に全文が紹介されるからだ。ところが史料の前後には、「陰謀悪策名を復古に籍り、徳川の明断を無視して、独断専恣の薩長幕府を出すそれ非法なる草賊の輩、何ぞ忠義を語るの口ありや」といった解説が、長々と続く。 薩長側の郷土意識が強い読者からすると、とても堪えられない内容の歴史書だろう。しかし、「朝敵」の烙印を押された東北人がどのような思いを持ち続け、明治という時代を生き抜いて来たのかは、日本人なら知っておくべきだと思う。戊辰戦後五十年、敗者たちの溜飲を下げるために、必要な本だったと考えたい。 (本書パンフレットより) |