明治維新史における転換点ともいえるたった一日の戦いを官・幕軍の家族から
現地住民の目撃談・体験談にいたるまで徹底的に掘り起こした稀有の戊辰戦史
明治戊辰 梁田戦蹟史
 真下 菊五郎
  マツノ書店 復刻版 ※原本は大正12年
   2010年刊行 A5判 上製函入 617頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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 地元の声で記す幕末維新の側面史         
  幕末史研究家 西澤 朱実
 「一に衝鋒、二に桑名、三に佐川の何とやら」――戊辰戦争の折、北越戦線でその武勇を謳われた衝鋒隊。彼らを越後へ至らせ、こののちさらに箱館へと向かわせる決定的な要因こそ、大敗を喫した下野梁田宿(現・栃木県足利市)での初戦だった。『明治戊辰梁田戦蹟史』が主題とする、僅か一日の戦闘がそれである。

 鳥羽・伏見の敗戦後、幕臣=古屋佐久左衛門・今井信郎は、東進する官軍に対抗すべく上州・野州から信越・奥羽に及ぶ親幕的連衡を構想し、代官=松本直一郎と謀り、二月二日には松本が管理する信州中之条陣屋より支配地へ前年未納年貢の徴発を回達させ、軍資金確保に動く。さらに古屋は、会津へ向け脱走した旧幕歩兵第十一・十二聯隊を説諭して配下に収め(衝鋒隊)、正式に信州鎮撫の命を受けて慶応四年三月八日、総勢八五〇を率い羽生陣屋を出立した。一方、同月十五日に江戸総攻撃を控えた官軍では、東山道先鋒総督=岩倉具定が同じく三月八日高崎に到着。その斥候隊として熊谷に入った川村純義・梨羽時起ら薩・長・大垣・山吹の兵約二百は、羽生屯集の旧幕兵に官軍横撃の意図ありと見なし、九日未明、梁田に宿陣中の衝鋒隊を急襲した。渡良瀬川を背に三方を囲まれた衝鋒隊は、一割近い戦死者を出した上、大砲六門を含む武器弾薬の多くを失い、以後、会津〜北越〜箱館へと転戦することとなる。

 が、岩倉具定が「初戦ニ両道トモ得勝、先々愉快ニ候事ニ候」(「東山道督府書類・八」)と記したこの戦いは、のちの上野戦争や奥羽・箱館征討に比べ、規模において遙かに劣るため、「迚も不可戦争」(同前)の寡勢で金星を挙げた官軍の当事者達でさえ「ほんの小競合位」(児玉利国談)と顧みず、梁田戦は長い年月の間に風化した観があった。

 これを嘆いたのが本書の著者=真下菊五郎である。官幕両軍の将官はもとより、その家族にも取材し、直接聞き取りを行ったほか、本書刊行までの四年間に三百通もの書状を関係各方面に往復させ、梁田戦の徹底的な掘り起こしを図った。殊に圧巻なのは、八十余名にのぼる地元の人々の肉声――梁田戦の目撃・体験談の採集だろう。その中には、平田国学者だった若き日の田中正造が官軍の宿陣に際し奔走したこと、官兵との間に言葉が通じず筆談でようやく相手の氏名を確認したこと、町の天ぷら屋がサツマイモの天ぷらを売っていて薩兵に怒られたことなど、地元ならではの逸話が含まれている。

 その蒐索を可能にしたのは、著者の真下自身が地元民≠セったことに負うところが大きい。幼い頃から梁田戦の話を聞いていたという真下は、本書刊行時の居所=群馬県邑楽郡小泉町(現・同郡大泉町)の近辺で生まれ育ったと考えられるが、そこは梁田を目指す官軍が飆(つむじ)のように往き、戦い終えて負傷者や大量の分捕品とともに凱旋した道にほかならない。

 むろん集められた逸話には、たとえば座光寺盈太郎の戦死といった、オーラル・ヒストリー特有の誤認・誤伝も少なからず認められるのだが、著者の真下は必要に応じて註を付しながら、聞き取ったままを記すことで当時の空気そのものに迫ろうとする。その結果として浮かび上がるのは、維新≠ネいし戊辰戦争≠ニいったものの非日常性であり、唐突に降って湧いた戦争≠ニいう災難でさえイベントとして見物する、庶民のしなやかな強さだろう。官軍にも旧幕軍にも属さないその土地の生活者≠フ目は、一種非情なまでの冷静さで戦闘を見つめ、他方、両軍の戦死者をひっそりとしかし手厚く弔う憐情を灯す。そして、あたりまえの生活を戦(いくさ)によって掻き乱された人々は、両軍の通過・撤退とともに、再び以前と変わらぬ毎日に戻っていくのである。

 維新の流れにせよ個々の戦闘にせよ、今日それを見る場合、往々にして官軍vs旧幕軍(あるいは諸藩)のような直接的に相(あい)対する一八〇度の関係で捉えがちだが、ここに第三の当事者≠スる地元民の視線が入ることで世界は一気に三六〇度に拓(ひら)けることを、本書は端的に示していると言って良い。また「官兵ノ功績モ将タ亦当時ノ役人トシ人足トシテ数昼夜ニ亘ツテ力闘セル古老ノ労苦モ、主家再興ノ芳情ニ健闘以テ芒間梁田ノ露ト化シタル幕軍戦士ノ遺勲モ」煙滅させるに忍びないと嘆ずる真下の一念、直接の関係者への丹念な取材とフィールドワークに基づく証言の収集、そして天狗騒動・出流山挙兵に遡って筆起される地域の記録は、今日の郷土史・地方史に通じる視点と手法であり、在野の史家の真骨頂がここにある。

 惜しむらくは、マクロ目線のフィールドワークに重きを置いた分、梁田戦の戦闘経緯を含め、俯瞰的な総論が充分に提示しきれていない感が否めないが、これについては、巻末と本文中に挿入された詳細な戦闘図の活用や、大山柏『戊辰役戦史』等を併読することによって補うことが可能だろう。本書の六百ページには、まさに慶応四年三月九日という刹那の重さが凝縮されているのである。

 余談ながら、梁田戦が出来(しゅったい)した三月九日は、山岡鉄舟のいわゆる駿府駆け≠フ真最中でもあった。この折もたらされた西郷の書翰により、十四日の勝・西郷会談から江戸総攻撃中止、無血開城への道が開かれたことは周知のとおりである。そうした状況の中で梁田戦を見た場合、小競合いとされ歴史に埋もれがちな単発の事象ながら、対処を誤れば東征のプロセスや江戸無血開城のシナリオに影響を与えかねない転換点のひとつであったことも、本書によって再認識される必要があるだろう。

 本書に記録された当時の目撃談・体験談は、今日いかに手を尽くしても千金を積んでも、絶対に得ることの叶わない貴重な歴史の宝である。一方で、古書市場では本書の在庫が散見されるものの、六〜七万円と、一歴史ファンの手に負えるものではない。今回マツノ書店からの復刻により、先人の遺したこの宝がより多くの愛好家・史家の許に届き、さらなる研究に活用されることを心から願う次第である。
(本書パンフレットより)


  隠れたる名著『明治戊辰梁田戦蹟史』
    戦史研究家 長南 政義
 戊辰戦争における東日本最初の戦いである梁田戦争は、戊辰戦争全体からみた場合、瑣々たる局地戦ではあるが、戊辰戦史を語る上で重要な戦闘である。

 慶応四年三月一日、旧歩兵差図役頭取・古屋作左衛門が、上州・信州筋鎮撫の命を受けて、江戸を出立した。江戸開城を控えて、暴発の気配を示す幕府歩兵を厄介払いしたい陸軍総奉行・勝海舟と、強硬派である古屋との思惑が一致した結果であった。

 三月九日早朝、脱走歩兵屯集の報を聞きつけた、官軍である東山道軍の一部(薩摩藩四番隊、大垣藩、長州藩からなる約二百名)が上渋垂方面から進軍し、辰の上刻(午前七時頃)、攻撃を開始した。戊辰戦争における東日本最初の戦い梁田戦争の幕開けである。官軍の攻撃は、濃い朝霧を利用した奇襲で、梁田宿を三方から包囲する作戦であった。

 一方の古屋作左衛門率いる幕府軍約九百名は、三月八日午後、羽生陣屋を出発し梁田に宿営し、翌九日の早朝に出発する予定で、朝食を準備している最中に、官軍の攻撃を受けることとなった。完全に不意を衝かれた幕府軍であったが、勇猛果敢に防戦に努めたものの、敗勢を覆すことは難しく、百名を超える犠牲者を出し、渡良瀬川を越えて敗走した。

 この梁田戦争の実態を、『防長回天史』、『衝鋒隊戦史』、「古屋作左衛門日記」、「内田荘次陣中日記」といった史書・記録類や、土地の古老による談話、維新の功臣の実話に徴して解明したのが、本書『明治戊辰梁田戦蹟史』である。
 本書は、全五編と附録からなり、第一編では、徳川幕府の滅亡から梁田戦争に至るまでの経過を読者に示し、第二編では官軍に関する事を、第三編では幕軍の事を叙し、第四編では各地の古老の証言を集録し、第五編では俗謡や書簡を採録している。

 著者の真下菊五郎は、梁田戦争の舞台となった梁田に近い群馬県の出身であり、自身が聞き及んでいた梁田戦争に関する史蹟
・記録が、時間の経過と共に煙滅することを憂えると共に、梁田戦争に従事した先人の遺跡を表彰し、古屋作左衛門に象徴される武士的精神を涵養することを目的に本書を執筆した。

 史書としての本書の価値を高めているのは、著者の編纂方法にある。本書は、真下が採取した古老や従軍関係者の生の談話を何等の修飾を加えることなくそのまま収録しており、その談話の内容も、上は古屋作左衛門といった司令官クラスに関するものから、直接戦闘に参加した兵士の談話、官軍を梁田まで案内した地元の名主の息子による梁田戦争実見談まで多岐にわたっている。

 特に、古屋作左衛門の長男が語る「幕軍古屋総督の一生」や、京都見廻組の一員で坂本龍馬暗殺に関与したとされる今井信郎の長男が寄稿した「今井信郎の生涯」は、本書でしか読むことのできない貴重な歴史の証言といえるであろうし、今井の弟で自身も十五歳で従軍した今井省三が語った「今井信郎の逸事」には、今井が坂本龍馬と中岡慎太郎を殺害したことに関する記述も含まれており興味深い

 もちろん、戦争当時から相当期間が経過した後の証言だけに、記憶違いや、事実の正鵠を期し難いような証言も中には存在するであろうが、著者の真下は、諸史料と照合して判明する範囲で註記を付して読者の閲読の便に供している。

 本書編纂に際し、真下は往復四百通もの書簡を往復させたと述べているが、その中から、後世史料として保存の必要があるものを巻末に掲載している点も評価に値する。そうした書簡の中には、梁田戦争に参加した、後の元帥陸軍大将黒木為驍フ絶筆なども含まれており、これも本書でのみしか読むことのできない価値ある史料となっている。

 ところで、梁田戦争には、維新後に日清戦争や日露戦争の将軍・提督として活躍した者が多数従軍している。日清戦争の海軍軍令部長・樺山資紀、海軍卿として明治海軍整備に功のあった川村純義、日露戦争の第一軍司令官黒木為驍ネどがその例である。特に、日露戦争の鴨緑江軍司令官川村景明や、日露戦争の第一戦隊司令官梨羽時起が、本書編纂に協力したことは、史書としての本書の信憑性を高めることに寄与しているといえよう。

 史書として優れた史料的価値を有する『明治戊辰梁田戦蹟史』であるが、これまでその知名度が低かったのは、国内の大学図書館で本書を所蔵するはわずか6校程度であり、利用に不便であったことに起因するものと思われる。

 今回の復刻を機に、戦争経験者の「生の声」を多数収録した本書を利用した戊辰戦争研究が進展することを願ってやまない。
(本書パンフレットより)