戊辰戦争から日露戦争まで…、全ての戦いに圧勝した名将の唯一の伝記
立見大将伝
 土屋 新之助
 マツノ書店 復刻版
   2010年刊行 A5判 上製函入 286頁 パンフレットPDF(内容見本あり)
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『立見大将伝』 略目次
第一章 少年時代
・修養
・時勢
・江戸勤番

第二章 青年時代
・京都勤仕
・征長従軍
・諸藩応接

第三章 戊辰の変
・幕府の衰亡二
・死節報効
・雷神隊

第四章 司法官時代
・官吏生活
・西南役従軍

第五章 佐官時代

第六章 日清戦役
・平壌攻撃
・鳳鳳城及ぴ賓馬集攻略
・奨家台の新戦術
・凱旋及ぴ逸話

第七章 日露戦役
・台湾総督府軍務局長
・黒溝台の戦闘
・奉天会戦

第ハ章 逝去及び余栄余録


  『立見大将傅』の伝える名将の姿
  作 家 中村 彰彦
 慶応四年(1868)一月三日に勃発した鳥羽伏見戦争にはじまり、明治二年(1869)五月十八日の箱館五稜郭の開城におわる一連の戦いを戊辰戦争という。この間、明治新政府軍(西軍)と戦いつづけた東軍といえば旧幕府脱走軍および奥羽越列藩同盟参加諸藩のことだが、まだどちらが勝つかわからなかった時点で、東軍の中では「佐幕派強い者番付」といわれるものが二種類作られた。
 「第一桑名、二佐川、次之者衝鋒隊」(中村武夫『泣血録』)
 「一に衝鋒、二に桑名、三に佐川の朱雀隊」(『衝鋒隊戦史』)

 桑名とは桑名藩十一万石松平家の兵力のこと、佐川とは会津藩朱雀四番士中隊の隊長佐川官兵衛のこと、衝鋒隊とは坂本龍馬を斬った男として知られる今井信郎らの参加した旧幕府脱走軍のひとつである。
 桑名藩は越後柏崎に六万石の飛び地領を持っていたため、桑名城が降伏開城したあともこちらへ移って戦いつづけた強力な部隊があった。名づけて雷神・致人、神風の三隊であり、そのリーダー格として雷神隊長をつとめたのが立見鑑三郎のちの尚文であった。

 慶応四年閏四月二十七日、右の三隊を主力とする東軍四百は、柏崎に近い鯨波で西軍一千人以上と交戦。西軍死傷者が五十余人に達したのに対し、桑名藩は戦死三人、負傷七人しか出さなかった。これは軍事奉行を兼務していた立見尚文のリーダーシップによるところが大きい。

 さらに同年五月十三日、越後長岡の西の要衝朝日山に集結した東軍は、信濃川の激流をはさんで西軍と対戦。長州藩奇兵隊の時山直八が濃霧にまぎれて渡河攻撃を決行すると、立見はこれに気づいて号令した。
 「よいか、者どもよく聞けい。すでに敵兵十五、六人は討ち取り、分捕り品などは数知れぬ。もはや味方は充分の勝利なれど、なお奮闘してひとりも残さず討ち取れ!」(小著『闘将伝 小説立見鑑三郎』〈角川文庫〉参照)
 これは大嘘であり、はったりである。だが、時山隊は驚いて敗走してしまい、時山自身も戦死した。山縣有朋は盟友の死を知るや、慨嘆のあまり一首詠んでいる。
  あだ守る砦のかがり影ふけて夏も身にしむ越の山風
 山縣の戊辰戦争回想録は『越の山風』という題名だが、かれに東軍の強悍さを見せつけたのは立見だったのである。

 本書『立見大将傅』はその立見尚文の全生涯を描いた唯一の伝記であり、章立ては「第一章 少年時代」「第二章 青年時代」「第三章 戊辰の変」となっていて、雷神隊の動向は第三章で語られている。
 つづいて「第四章 司法官時代」では、明治六年以降司法省に出仕していたかれが、十年二月に西南戦争が起こるや陸軍歩兵少佐に任じられ、新撰旅団の参謀副長として薩軍討伐におもむいた事情が記述される。同年九月二十四日払暁、西郷隆盛ら薩軍生き残り四百数十人の篭る城山の岩崎谷へ突入した攻撃兵千三百余の指揮官は立見少佐。かつて戊辰の賊徒とみなされた者のひとりだった立見は、その九年後に維新回天の英雄から賊徒首魁となった西郷を討ち取って雪辱を果たし、錦絵にも描かれて時の人となったのだ。

 陸軍の中で闘志の人として一目も二目もおかれた立見が順調に出世してゆく姿は、「第五章 佐官時代」に詳しい。しかし、何といっても本書の読みどころは「第六章 日清戦役」と「第七章 日露戦役」なので、ここでは明治二十七年六月に陸軍少将、歩兵第十旅団長に任じられてからのその戦歴を見ておこう。
 立見が同年八月に朝鮮半島の仁川に上陸した時、すでに日本陸軍は朝鮮の首都漢城(今のソウル)を奪い、平壌めざして北上しようとしていた。この時も立見支隊は強く、総攻撃当日の九月十五日には平壌東方の牡丹台の砲塁を抜いて清の将軍左宝貴を討ち取り、勢いに乗って平壌一番乗りを果たした。立見は路傍で泣いていた孤児を馬上に抱き上げて進んだので、このエピソードは名将ならではのこととして日本に伝えられた。

 さらに北進し、樊家台という寒村を谷底に見る雪深い山間部で黒龍江将軍依克唐阿の兵力三、四千と対峙した際、立見支隊は兵力千三百に満たなかった。前方左右の高地から有力な敵に挑まれたら、すみやかに転進するのが常識である。だが、立見は支隊を右翼、本陣、左翼に三分。敵弾の命中率が低いと見て左右高地の敵を無視し、その本陣の置かれていた樊家台に中央吶喊をおこなわせて勝ちを制した。
 人呼んで「樊家台の新戦術」。これに驚いた野津道貫陸軍中将は、
 「立見中将は東洋一の用兵家だ」
 とコメントし、アメリカの『ニューヨーク・ヘラルド』紙も立見を「日本随一の戦術家」と呼ぶことをためらわなかった。翌年七月に凱旋帰国したかれが男爵を授けられて華族に列し、功三級金鵄勲章と勲三等旭日中綬章を受けたのも、当然のことであろう。

 明治三十年十月、陸軍中将に進み、新設の弘前第八師団の初代師団長となった立見は、すでに立志伝中の人物であった。ところが、三十七年二月四日の御前会議で対露開戦決定となり、還暦を迎えて「銀髯将軍」と渾名されていたかれは、十年ぶりに朝鮮から満洲へと駒を進めた。 
 あけて三十八年一月、日本軍が旅順を占領して満洲を北上すると、クロパトキン大将率いるロシア軍三十数万は奉天(今の瀋陽)付近まで南下、兵力二分の一以下の日本軍を一気に叩こうとした。そのコサック騎兵は世界最強と自他ともに認めるばかりか、雪と寒さにも強い。一部は奉天から西南へ流れる渾河が氷結したのを利用して南岸へ渡河し、黒溝台という集落を占領して前線基地とした。

 大山巌をトップとする満洲軍総司令部は読みがあまりに浅く、この動きをただの強行偵察としか見ていなかったから始末が悪い。一月二十五日、立見師団に黒溝台攻撃が命じられた時、この方面のロシア軍は八個師団にまでふくれ上がっていた。しかもロシア軍には速射砲と機関砲が多数配備されており、日本軍はいたずらに雪原を朱に染めるのみ。にもかかわらず砲弾を恐れもせず悠然と指揮していた立見に、大山総司令部がようやく三個師団の援軍を急派すると決めたのは二十八日のことであった。

 この援軍を両翼に配した立見師団は、ようやく得意の中央突破に専念できることになった。それでも彼我の兵力比は二対一であったから、二十八日早朝、立見は悲壮な命令を下した。
 「第八師団の各部隊は予が訓示を銘心し、仮令多大の損害を蒙るも、決意超然、大いに攻撃を遂行し、師団の名誉を失墜せざらんことを望む」(第七章)
 だが、ロシア軍も大反攻に転じ、日本軍は不利な戦況を打開できない。苦境を脱するには強襲につぐ強襲あるのみと戊辰鯨波戦争以来信じていた立見の戦い方は本文に譲ることにして、ここでは決死隊を編成して敵へ五百メートルの距離から銃剣と刀による夜襲を展開した日本軍の前に、ロシア軍がついに敗走した事実だけを示しておく。

 立見師団の死者千五百五十五に対し、ロシア軍の遺棄死体は七千八百三十余。立見は兵たちを慰労すべく、しゃれた狂歌を作った。
  黒鳩が蜂にさされて逃げ去れりもはや渾河と立ち見けるかな 
 戦後、立見が陸軍大将に進んだのも当然のことだが、日本で大山巌、児玉源太郎、乃木希典らが英雄視されるに至ったのに対し、欧米の評価は「日本陸軍の勝利は黒溝台の戦いで決まった」というもので、その最大のヒーローは立見尚文とされている。 

 戊辰、西南、日清、日露の各戦争を戦い抜いた名将の生涯を描いた本書は、昭和三年、日正社から刊行されたものの、それは非売品としてであり、一般には知られていなかった。
 このたびマツノ書店から復刻されることにより、立見将軍の雄々しい姿が忘却の淵から蘇ることを『闘将伝』の作者として喜びたい。
(本書パンフレットより)


  常勝将軍・立見尚文
   東京大学教授 山内 昌之
 日本史上、不敗の将軍がいた。その人こそ、桑名藩出身の立見尚文である。
 立見鑑三郎こと尚文ほどの軍人は世界史でも滅多に出るものではない。彼は、幕末から明治を生き抜いた最高の指揮官と謳われる。
 日露戦争の第四軍司令官、野津道貫は、薩摩の出身だったが、藩閥外の立見を「東洋一の用兵家」と高く評価したほどだ。

 幕末の江戸で立見に近代兵学を教えたフランス人教官は、「ナポレオン時代のフランスに生まれていたなら、三十歳になる前に将軍になっただろう」と激賞したものである。
 立見に関する本格的な評伝を書いた歴史家はいない。少し前に、小学館の『サピオ』誌で日本最強の軍事指導者を選ぶアンケートに答えたことがある。私は躊躇なく立見の名を上げた。そして、同じ問いを受けた旧知の直木賞作家、中村彰彦氏に向かって、「誰を選んだのか」と尋ねると、氏も立見を挙げたので二人で大笑いしたものだ。
 立見の軍歴は、戊辰戦争から西南戦争を経て、日清日露の戦役に及んでいる。確かに、立見の桑名藩は、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍の主力として戦いながら、敗北を喫した。しかし、桑名に弱将や弱兵はほとんどいなかったようだ。主戦派は、飛び地のある越後(新潟県)の柏崎に移って抵抗を続けている。この時、二四歳の立見が率いた七五人の雷神隊など三五〇人ほどの桑名勢は、朝日山に迫った一千人の新政府軍を散々に打ち破った。奇兵隊の時山直八が戦死したのはこの激戦においてである。

 参謀の山県有朋が年来の同志時山を失ったショックは大きく、立見の昇進を何かと妨害した山県のこだわりは、朝日山の敗戦から始まったといってよい。 
 山県の名誉のためにも一言加えておかなければならない。それは、歌人山県が朝日山の戦を詠みこんだ名歌のことである。しかし、この陰翳に富む歌は、山県の心に反して敵将の並々ならぬ力量を想像させる逆の効果を生んでいる。
  あだまもる 砦のかがり影ふけて
  夏も身にしむ越の山風
 まるで、立見の颯爽とした姿をシルエットのように浮かび上がらせる歌ではないか。
 降伏後の立見は、やがて司法省に出仕し、下級判事などを務めた。しかし、各地で不平士族の反乱が相次ぐと、かつての敵だった明治政府に請われて陸軍に迎えられたのである。なにしろ、唯一人の陸軍大将西郷隆盛はじめ高級軍人の出身地薩摩が反乱を起こした今、朝敵≠ニか賊軍≠ニいったレッテル貼りにもはや拘泥してはいられなかったのだ。

 西南戦争では陸軍少佐として新撰旅団一個大隊を指揮し、日清戦争では陸軍少将で歩兵第十旅団長を経験したが、いずれも将兵に対する際立った統率力と感化力を発揮した。 
 立見の名を不朽にしたのは、日露戦争のとき黒溝台の戦線左翼で壊滅の危機に瀕した秋山好古の騎兵部隊を支援した戦いであろう。厳寒に鍛えられた第八師団(弘前)を率いる立見は、師団の総力を挙げて夜襲する世界戦史で破格の作戦を指揮した。二万人が夜に奇襲を仕掛ける作戦を考え付いたのは、立見の才と天性のひらめきがあったればこそであろう。

 この時、命令受領者を集めた立見は話しているうちに興奮も極まり、演説台の代わりにした支那箪笥≠思わず足で踏み破ったほどだ。立見は多数の犠牲者を出しながらも屈せずに、臨時立見軍を編成し、ロシア陸軍を分断して最後には退却させたのである。
 零下[40]度の厳寒で高齢の将軍が戦地に立つのはつらい。それなのに、立見が陣頭で指揮を取り続けた粘り強さは、その後の驕り高ぶった昭和の将官にはないものだ。ロシア軍の圧倒的な優勢を退け攻勢に転じたのは、我慢強い東北の精兵の戦闘意欲に加え、「立見がいたからだ」という風評が東北の農村で後々まで語り継がれる伝説になったのである。
 これまで入手が絶望とされた唯一の伝記が今回、マツノ書店の芳志によって初めて復刻されることになった。その刊行が待ち遠しいことである。
(本書パンフレットより)