高杉晋作、久坂玄瑞と並ぶ”松陰門下三舟”吉田年麻呂(稔麿) 地元気鋭の研究者が丁寧な注釈や解説を加え満を持して放つ第一級貴重文献 |
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吉田年麻呂史料 | |
一坂太郎・道迫真吾 | |
マツノ書店 | |
2012年刊行 A5判 上製函入 485頁 パンフレットPDF(内容見本あり) | |
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『吉田年麻呂史料』 略目次 |
■往復文書(嘉永六年より年代順に列記) 吉田松陰、大野信吉、富永有隣、高杉晋作、斎藤栄蔵、許道、櫻井幸三郎、中谷正亮、母イク、父清内、作間貞、岡部繁之助、松浦松洞、増野徳民、来島又衛門、岡 元太郎、桂小五郎、久坂玄瑞、品川弥二郎、吉田松陰・静斉、里村文左衛門、里村スミ、岡本三右衛門、伊藤俊輔、柴田東五郎、平井政次郎、寺島忠三郎、小幡彦七、妻木田宮(向休)、平野清介、中村文右衛門、保里某など計121通。 ■述 作 日記、両秀録、意見書草案、東風不競蜜話草案、祖母の三年祭文など8篇。 ■履歴史料 吉田氏譜、吉田稔麿年譜、吉田稔麿存生并死期之伝記写など計8点。 ■関係史料 吉田松陰日記、同書簡(40通以上)、洞折煙管記、久保松太郎書翰、久坂玄瑞書翰、佐世八十郎、伊藤俊輔書翰、入江杉蔵書翰、白石正一郎書翰、御盾組血盟書、益田弾正書翰、乃美織江手記、京都における吉田松陰慰霊祭記事、馬関攘夷従軍筆記、奇兵隊日記など計124点。 ■影印遺墨を写真で紹介(48頁) ■引用および参考文献一覧 |
■ 研究者以外の方にも利用しやすい史料集を (道迫 真吾) |
周知のとおり、従来吉田稔麿に関する基本史料として利用されてきたのは来栖守衛『松陰先生と吉田稔麿』である。ただし同書には大きな欠点があった。なぜかといえば、同書が刊行された昭和十三年当時の社会的風潮と、著者個人の主観とが影響して、史料中に伏せ字が使用されたり、史料の大部分が省略されたりしているからだ。 そこで本書編集にあたっては、吉田家旧蔵で現在は萩本陣所蔵(萩博物館寄託)となっている稔麿関連史料の原典にあたって正確を期する一方、研究者以外の一般利用者の便も考慮して可能な限り読みやすいものとなるよう心がけた。 その理由は、私が博物館という世界に身を置いているからにほかならない。常日頃より、研究者よりもむしろ一般利用者から、本書の刊行を待ち望む声が届いている。ぜひ実際手にとってみて、使いやすさの面で他の史料集との違いを感じとっていただきたい。 |
■ 「松陰入門」の自筆履歴書 (一坂 太郎) |
この史料集編纂の作業が終わりに近づいたころ、松陰の生家である杉家の史料(萩博物館蔵)未整理分から、吉田栄太郎(稔麿)の履歴書が出て来た。半紙一枚に細かい文字で書かれている「新史料」だ。 まず、一行目が「天保拾弐年丑閏正月廿四日七ツ時生」となっている。年月日はともかく、生まれた時刻まで書いてあるのが面白い。十三歳の嘉永六年(一八五三)には藩主参勤に従い、初めて江戸へ赴くのだが、六月にはアメリカのペリー来航に遭遇する。そのさい、長州藩は幕府より大森海岸の警備を任されたが、栄太郎は「慷慨」のあまり、「御人数に加え」て欲しいと願い出る。しかし「少年故に御役に立たず」との理由で、却下されたという。外圧に敏感に反応した様子がうかがえる。 つづいて萩で、誰について文武の修行に励んだかが列記され、最後に「(安政三年)十一月廿五日、尊館へ入門つかまつり候、栄太郎」とある。「尊館」とは、松陰が主宰する松下村塾(まだ、この名称は使っていなかったが)のこと。つまりこれは、松陰に入門にさいし栄太郎が提出した、自筆履歴書なのだ。他の塾生たちもみな、このような履歴書を書かされたのかは知らないが、当時の雰囲気が伝わる貴重な史料と言えよう。もちろんこの履歴書は翻刻し、影印版と共に収めてある。 |
『吉田年麻呂史料』の刊行を喜ぶ 京都大学名誉教授 元京都学園大学学長 海原 徹 |
元治元年六月五日の池田屋事件で闘死したとき、吉田栄太郎はまだ弱冠二四歳の若さであった。維新の大業半ばで非命に倒れ、歴史の表舞台から早々に退場した大勢の村塾生の中でも、おそらく一、二を争う短い生涯ではなかっただろうか。あまりに早く姿を消してしまったためか、村塾時代はともかく、その後の彼の履歴、なかんずく志士的キャリアは、その華やかな事績のわりには、さほど詳しく知られていない。 安政三年三月から五年一二月まで、二年一○カ月余存続した村塾に学んだ九二名の塾生たちのうち、栄太郎は比較的早く村塾の門を叩いた一人であり、まだ松陰先生が杉家の幽室(四畳半)で教えていた安政三年一一月二五日、すでに寄宿生であった増野徳民に伴われて来た。天保一二年生まれであるから、数え年一六歳のときである。村塾に一○名ほどいた足軽・中間の軽卒身分の中では一番早い来塾であり、やがて姿を見せる品川弥二郎や伊藤利助(博文)らが、彼の紹介で来たことは、おそらく間違いない。 野山再獄後は、親族一同に強く迫られ、松陰先生はもちろん、村塾との関係もすべて絶つことを余儀なくされ、しばらく消息不明となるが、栄太郎の履歴の中で一番分かりにくい、つまり謎に満ちているのは、兵庫出張中の万延元年一○月、脱藩して江戸へ出た一件である。出自を隠すためか、松里勇と名前を変え、しばらく諸方に潜伏しているが、この間の周旋に桂小五郎や久坂玄瑞らが関わったふしがあり、松門の同志たちによって仕組まれた半ば公然たる脱藩であったらしい。旗本奉公を画策、伝手を辿って旗本妻木田宮の家来となり、用人格まで出世している。幕府の奥右筆、やがて目付に任じた妻木の下で、幕閣の情報収集をめざしたものであるが、文久二年五月、「将軍入朝攘夷の令旨を伝へ」る勅使下向を知ると、突然、妻木家を辞して萩城下に戻った。脱藩行の罪は一切問われず、再出仕を許されており、当局側にも、この間の事情は了解済みであったようだ。 文久三年四月、馬関で久坂玄瑞らを中心に結成された光明寺党のメンバーであり、六月七日、これを母体に発足した高杉晋作の奇兵隊にいち早く馳せ参じた。七月五日、吉田松陰に従学し、尊王攘夷の正義に尽くした功績で士雇に挙げられ、藩命で稔麿(年麿、年麻呂、年丸、としまるとも書く)と称したのは、このときである。たまたま大組士に同姓同名の人物がいたための処置であり、改名そのものに、とくに深い意味はない。 この後、幕府軍艦朝陽丸の抑留事件や奉勅攘夷、馬関戦争の経過説明の外交交渉に従事し、また早くから被差別部落民の登用を建言、自らは屠勇取立方として、やがて四境戦争で活躍する維新団や一新組など、いわゆる部落民隊登場の先駆けとなった。まだ二○代に入ったばかりの若輩にもかかわらず、その才知や大胆な行動力は、村塾出身者の中でも抜群であり、早くから藩内外でその名を知られた。「松門四天王」の一人として、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一らと並び称されるのも、決して理由なしとしない。 新撰組と斬り結んで死んだ村塾の有名人のわりには、吉田栄太郎をメイン・テーマにした研究論文や著書はきわめて珍しく、一本にまとめられた伝記的取り組みとしては、戦前、昭和一三年に山口県教育会から刊行された来栖守衛『松陰先生と吉田稔麿』が、おそらく唯一のものであろう。吉田栄太郎一筋に長年研鑽を重ねてきた著者来栖が、満を持して世に問うた力作であり、膨大な時間と労力をかけて収集した史料を随所にちりばめ、しかも全編、達意の文章は、大いに説得力があり、読む者を一々首肯させる。今から七三年前に書かれた遙か昔の古い本とはとうてい思えない、なかなか読み応えのある好著である。 とくに巻末の「吉田家保存の文書」は、栄太郎が父母や友人知己、先生などに出した手紙やその返書、あるいは藩庁宛の上書や建言、その他関係書類を一括、編年史的に収録しており、またこれに続く、「吉田家以外に保存の文書」は、毛利公爵家や諸家の所蔵する関係文書を収録している。本文に引用された多くの史料と併せ、いずれも第一級の貴重な文献であり、単なる評伝でなく、史料集としても大いに利用価値がある。 とはいえ、本書にも不足した部分、われわれ読者から見て不満な箇所がないわけではない。それは、掲載された史料のあちこちで、「全文省略」「之ヲ略スル」「外略ス」などとしながら、タイトルや大意のみで全文の掲載を省略、割愛したものが少なからずあることである。研究者的な観点からすれば、まさにその箇所が知りたい、もう少し続きを読んでみたい部分が、著者来栖の判断のみで随所にカットされており、その辺は以前から大いに気になっていた。 今回、マツノ書店から刊行される『吉田年麻呂史料』は、来栖本の出発点となったいわゆる「吉田家保存文書」の原本を探し出し、かつて省略、割愛された部分を可能なかぎり元に戻し、それらの一つひとつに丁寧な注釈や解説を加えたものである。しかも、旧書にはなく、その後、新しく発掘、収集された栄太郎関係の未見の史料が多数プラスアルファされており、研究者はむろん、一般の歴史愛好家をも対象にした本格的な書物となっている。 なお、「史料」の編者となった一坂太郎、道迫真吾の両氏は、萩博物館勤務の新進気鋭の研究者であり、吉田松陰や松下村塾についてもすでに多くの業績を世に問うてこられた。その意味で、史料の収集や編纂の作業、またこれを正確に読み込み、詳しく解説する上で、両氏にまさる適任者はなく、本書の値打ちを高めるのに、大いに役立っている。 今回の「史料」の登場が、これまで必ずしも正面から取り上げられることのなかった吉田栄太郎の人と為りにさまざまな側面から改めてスポット・ライトを当て、新しい研究の出発点となることは、おそらく間違いない。刊行に期待するところ大である。 (本書パンフレットより) |