正之から容保に至る歴代藩主の事蹟を厳密調査。明治以来の会津を代表する学者達によって代々書き継がれ 会津藩の士風と通史をより正確に知るための魅力あふれる史書。 |
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会津松平家譜 | |
飯沼関弥 | |
マツノ書店 復刻版 | |
2013年刊行 A5判 上製函入 530頁 パンフレットPDF(内容見本あり) | |
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『会津松平家譜』の魅力 作 家 中村 彰彦 |
陸奥国に属する会津地方は、古代から奥州街道の白河方面と日本海側の越後との間にひろがる大集落として繁栄していたことが知られている。会津四郡は屈指の米どころでもあるだけに、戦国時代を迎えるとさまざまな武将たちの去来するところとなった。その名と、会津を去った理由を列記すると次のようになる。 蘆名義弘 天正十七年(1589)、出羽米沢の伊達政宗に敗れて追放される。 伊達政宗 同十八年、豊臣秀吉に領土を没収される。 蒲生氏郷 文禄四年(1595)死亡。 蒲生秀行 慶長三年(1598)秀吉により下野宇都宮へ移封される。 上杉景勝 同六年、徳川家康により、米沢へ移封される。 蒲生秀行 同十七年 死亡。 蒲生忠郷 寛永四年(1627)、死亡。 蒲生忠知 同年、伊予松山へ移封される。 加藤嘉明 同八年、死亡。 加藤明成 同二十年、封土返還。 加藤明成の後を受け、徳川三代将軍家光の指令によって会津藩二十三万石を立藩したのがその異母弟保科正之であった。会津保科家は正之ー正経ー正容とつづき、正容の時代に五代将軍綱吉の命令によって松平に改姓。その後は容貞―容頌―容住―容衆―容敬―容保と代替わりして戊辰戦争に敗れ去り、明治新政府によって滅藩処分という厳罰に処された(のちに奥州斗南藩三万石として再興)。 本書『会津松平家譜』は、保科正之が徳川二代将軍秀忠を父、奥女中神尾静を母として生まれた事情から松平容保の死までを編年体によって通史的に記述した史書である。八代容敬の項(巻九)までは明治二十年頃の脱稿と思われており、編者としては南摩羽峰(綱紀。東京帝大、東京高等師範学校、同女子高等師範学校教授を兼任)、秋月韋軒(胤永。第五高等学校教授)その他、旧会津藩の藩校日新館に学んだ俊英たちが想定されている(「緒言」)。 これら編者たちの学力の高さは、私見によれば本書の記述の正確さ、表現の品の良さのみならず、ていねいな注にもよく反映されている。 たとえば将軍家光は、父秀忠が正室お江与の方(お江とも)の目を恐れて正之を公式にわが子とは認知しなかったため、ある時点まで正之という異母弟がいることを知らなかった。信州高遠藩三万石の藩主保科正光に養子入りし、保科正之となっていたこの青年こそ実の弟だと知った家光は、寛永十三年(1636)七月、正之に出羽最上藩(山形藩)二十万石への転封を命令。その七年後には会津藩二十三万石への再転封を命ずるのだが、本書寛永十三年七月の項には、家光が正之を異母弟と知った事情についてつぎのような注がある。 [(上略)世に伝ふ是より先き大将軍目黒に猟して成就院に憩ふ。僧其の大将軍なるを知らず、語りて曰く、聞く肥州(肥後守=正之のこと、筆者注)は実に大将軍の弟なりと。然るに其禄甚だ少なし、何ぞ貴人の友愛の情に薄きこと此の如きやと。幾ばくならずして是の命あり。] この話の出典は新井白石の『藩翰譜』であり、きわめて信憑性が高い。話が私事に及んで恐縮だが、私が『保科正之ー徳川将軍家を支えた会津藩主』(1995年、中公新書。2006年、中公文庫)や長編小説『名君の碑 保科正之の生涯』(1998年、文藝春秋。2001年、文春文庫)を執筆するに際し、つねに本書の正之の項(巻一、巻二)を参照したのも、記述の正確さとその表現の味わい深さゆえであった。 ちなみに、思いがけず四半世紀にわたって会津史について書きつづける人生を歩んできた私としては、会津藩史を三段階噴射式のロケットに見立てている。むろんその第一段階は保科正之の時代であり、四代将軍家綱の輔弼役ー実質上の副将軍として「徳川の平和」の実現に寄与したその足取りは、次のように要約できよう。 一、家綱政権の「三大美事」の達成(末期養子の禁の緩和、大名証人[人質]制度の廃止、殉死の禁止。) 二、玉川上水開削の達成。 三、明暦の大火直後の江戸復興計画の立案と、迅速なる実行(ただし、江戸城天守閣は無用の長物として再建せず)。 また正之の会津藩祖としての業績は、つぎのようになるであろう。 四、 幕府より早く殉死を禁止したこと。 五、社倉制度の創設(以後、飢饉の年にも餓死者なし)。 六、間引の禁止。 七、世界初の国民年金制度の創設(身分男女の別を問わず、九十歳以上の者に終生一人扶持[一日につき玄米五合]を支給)。 八、救急医療制度の創設。 九、会津藩の憲法である家訓十五ヶ条の制定。 第二段階は五代藩主松平容頌の支持を得て、名家老田中玄宰が断行した寛政の改革の時代である。天明の大飢饉に襲われ、藩の借入金が五十七万両に達してしまったこの時代に玄宰がおこなったのは、今でいえば構造改革。その柱となったのは四点である。 一、農村の復興(養蚕、養鯉、薬用人参、松茸栽培の奨励)。 二、地場産業(会津漆器、会津清酒、本郷焼)の改良と育成。 三、藩校日新館の新設(道徳の教科書としては、「会津論語」ともいわれた松平容頌編纂『日新館童子訓』を使用)。 四、軍制改革(長沼流軍学の採用)。 これらの改革によって会津藩は立ち直り、文化四年(1807)、ロシア人が樺太の日本人集落を荒らしたと報じられた時には幕府に申し入れて樺太出兵さえおこなった(実行は翌年)。この時点で会津藩は日本という国家の国防の第一線に立ったわけで、第三段階、九代藩主にして最後の藩主となるべき運命にあった松平容保が、文久三年(1862)十二月、京都守護職として京に赴任し、戊辰戦争に敗れ去ったのも国防の第一線に立つことをためらわない藩風に従ってのことであった。 本書でいえば容頌時代のことは巻六に、容保の事績については巻十から巻十五に詳述されていて歴史の大きなうねりというものを実感させてくれる。 なお本書は前述の通り巻九までは、「明治二十年頃」までに執筆され、巻十から巻十五までは容保が五十九歳を一期として世を去った明治二十六年(1893)十二月以降に、その側近だった者たちの合議によって書きつがれたものの「松平家の筐底深く蔵せられ」(「緒言」)、「緒言」執筆者飯沼関弥を発行者として刊行されるには昭和十三年(1938)三月を待たねばならなかった。 さらに昭和五十九年(1984)七月、本書は会津若松市のシンボル鶴ヶ城の築城六百年目に国書刊行会から再刊されたが、それももう四半世紀以上前のこと。近頃は古書店の目録類でも本書の題名を見掛けることもなくなり、まして本書を活用しつつ書かれた史論など見たことがない。 しかし、この魅力あふれる史書が一般に知られないままなのはあまりに惜しい。私はかねがねそう思っていたので、このたびマツノ書店版が世に出ると知り、大いに気を良くしているところである。 本書によって保科正之が手塩にかけて育て、正之の定めた会津藩家訓の精神に従って幕府と存亡をともにした会津松平家の士風と通史がひろく世に知られれば、会津戊辰戦争に散った三千十四柱の魂魄も喜んでくれるような気がしてならない。 (本書パンフレットより) |
『会津松平家譜』 略目次 |
巻一 正之 幸松丸、武田見性院に養わる 幸松丸、保科正光の養子となる 幸松丸、始めて前大将軍秀忠に謁す 幸松丸、元服して正之と云う 正之の母神尾氏浄光院と号す 始めて天顔を拝し天盃を賜わる 浄光院逝す 封を最上に徒さる 島原の賊起至り封を命ぜらる 乱民の巨魁を磔す 大政と與議せしむ 梶原景信を招き用う 小事といえども上を欺かず 封を会津に賜う 徳川家綱元服の時理髪す 家老等に官反内貨来の意を諭す 公事奉行を戒諭す 大将軍託孤の遺命 塩を城中に蓄う 輔養編成る 従三位を辞す 嫡子正頼の叙任 社倉を置く 小櫃素伯の二楽 明暦の大火 回向院を建つ 正頼病みて逝す 巻二 正之 邸地を箕田に賜う 女を前田綱紀に嫁せしむ 玉川の水を引き江戸の用水と爲さんことを建議す 家臣に憲令十一條を申す 正之眼を患ふ 封内に令して殉死を禁ず 吉川惟足を招ぎ神書を講ぜしむ 佐藤氏興を会津に遺し家老奉行を戒諭す 山崎闇齋を招ぎ論語を講ぜしむ 封内社寺の縁記書成る 箕田藩邸建築成る 玉山講義付録上梓成る 会津風士記成る 山鹿素行が造言の罪を建言す 封内の諸社を再興し社領を付す 神道の奥秘を極む 氏章を辞す 家訓十五条を定む 飢民を賑済するの方を諭す 二程治教録上梓成る 伊洛三子伝心録編輯成る 致仕を許さる 輔佐中の書類は悉く之を焼く 正経並びに家老等を誡諭す 田中正玄死す 会津旧事雑考を撰せしむ 会津神社志及神神社総録を作らしむ 友松は事実、横田は言行録を作る 牝鶏司晨の戒 女婿稲葉正通に囑する所あり 江戸箕田邸に逝す 正之の性行 専心治を図り教化大に行わる 巻三 正経 郡村の蓄籾を増す 市中無住の寺を毀つ 家臣に三条を令す 郷頭の世襲を停む 若松大火 向井好重会津四家合考を致す 松野勾當唐鑑要略を致す 倉津増風土記及び外風土記成る 門田堰造築成る 会津風土記其の他を大将軍に献ず 新田二百石を土津社に付す 弟正容を養ひて嗣となす 正経致仕す 告戒二通を作り正容に授く 正経逝す、葬儀佛氏による 正経の性行 巻四 正容 友松氏興見禰山由来記を著す 大将軍黒印書を賜う 伊南与八郎、続太平記を著す 聖光院、正容を教訓す 賜邸庭中の珍木奇石を埋蔵せしむ 安井算哲、改暦考を禰山杜に納む 即位の儀を観、天顔を拝す 封内の四民に令し風儀を正くし学を勉めしむ 講所に孔子像を納む 節倹の令を申す 旧証類聚成る 講所に聖廟を造り聖像を祀る 藤田祐詮、曾津孝子伝、長井九八郎、本朝通記を撰呈す 伊南圖書、武小学を撰呈す 先封佐原義連の墓碑を建つ 松平と称し葵章を用うるの命を拝す 平維茂の墓碑を建つ 軍制を河陽流に改む 系譜を改正して幕府に呈す 倹約を守らざる者に対する布令 正之以來の定制を尊守すべきの旨を令す 南山の郷頭旧の如く会津に隷せ られんことを乞ふ 土津社に大明神宗源宣旨を授与す 幕府累葉の霊屋を各自に建つるを止めしは正容の建議に基く 農商に節倹の令を申す 南山の民党を結び江戸に控訴す 南山を復た正容に預けらる 会津大風雨大洪水被害甚大 越後國魚沼郡の内高七万石余を預けらる 土津明神の宗源宣旨を見禰山社に納る 正容、会津に逝す 正容の性行 巻五 容貞 容貞意を民事に注ぐ 改正神社総録衡定編及び寺院本末帳編輯成る 封内の孝女良婢を賞す 封内の忠僕孝子貞婦を賞す 手書を家老に与えて戒諭す 積慶録編輯成る 大監察との問答 農民群起して請う所あり 容貞の性行 巻六 容頌 幕府沼尻山の訟を断じて会津領となす 七年間痛く節倹すべきの令を布く 再び痛く節倹すべきの令を申す 糺問裁制遅延すべからざるの令を申す 重ねて聴訟裁判遅延すべからざるの令を申す 三たび厳に節倹を守るべきの令を申す 重ねて倹約の令を申す 大に節倹すべきの令を申す 安永三年の飢饉 財用益々乏しきを以て痛く節倹を行う 南山の農民金を納れて用度を助けんと乞う 天明の大飢饉 粥を作り又自ら奉ずる所を減じて窮民に与う 田畝租税の額五分を減ず 田中玄宰政務改革の議を建つ 河陽流の軍制を廃し長沼流に改む 学校の区域を拡大し孔廟釈菜の儀を行う 六科糺則の令を下す 六行 八則 四郡の役局に目安箱を置く 高嶺覚太夫、会津鑑を編輯す 訓戒五條を容住に與う 古屋重次郎を聘す 寛永重修家譜を幕府に呈す 始めて学校奉行を置く 始めて追鳥狩を爲す 土津大明神の額を掲く 三年を限り倹約を嚴にすべきの令を申す 浦上玉堂を召し見禰山社の神楽を再興す 日新舘落成し開校の儀を行う 日新館大成殿に聖像を置き釈尊の儀を改定す 考課九等四善の格を定む 容頌会津に逝す 容頌の性行 仕置類寄及ぴ日新館童子訓を編輯す 巻七 容住 元服前大将軍の代参を勤む 家臣に政事の得失を言はしむ 貯金を出して貧民の育児料に充つ 嚴に節倹を行い用度を省かしむ 容住江戸に逝す 容住の性行 巻八 容衆 國用窮乏諸臣請うてその俸禄を納る 兵を出して蝦夷を鎮圧す 兵ら帰途暴風逆浪に逢い非常に難苦す 家臣の賄扶持を止む 新編会津風土記編輯成る 学制を改定し専ら程朱の学を修めしむ 節倹令を申し絹帛を用ふる勿らしむ 医学館を城下に造る 家政實記成る 法令を改定し法度書を著す 大野原の練兵場成る 家臣の俸禄を止めて復賄扶持と爲す 大に文武の学制を改革す 大将軍家斉の女元姫来り嫁す 容衆逝す 容衆の性行 巻九 容敬 嚴に節倹を行ふべきの令を申す 諸臣の賄扶持を止む 門地に拘らず入材を採用す 諸卒を団居せしむ 大野原に於て迫鳥狩を成す 三子を生める農を賞して籾を与う 神道を修業すべき者を優待す 学校の教則を改定し文武を振起す. 文武の芸未熟の者は奉職し得 ざるの制を定む 容敬大将軍の命を以て登京参内し龍顔を拝す 大河原臣教、千歳の松を編纂して之を納る 諸士系譜成る 封内大に飢うれども賑済その方を尽くす 節倹を厳にすべきの台命あり 商品税を廃して物価を廉にせしむ 価を廉にし淳直に商売するを賞す 罪人を封外に追放するの刑を改む 城内三ノ丸にて練兵す 山本良高始めて西洋形の臼砲を鋳る 民政数條を令す 水戸の百姓来り斉昭の幽閉を解かんことを請う 志賀重則を萩に遣す其の藩主の請に依る 松平容保を養子とす 教訓数条を手書して容保に与う 房総の海岸に屯戌すべきの台命を受く 幕府外国船来航の處置を令す 房総詰の将士並に番頭に諸注意を令す 容敬房総警備地を回視す 富津海岸に新に砲台を築く 英国船相模海に至る 阿部正弘と問答書 四書輯疏刻成る 幕府海防の令を布く 木更津の海岸に哨兵廠及び武庫を造る 諸罪の裁断悉く了り牢獄皆虚し 大将軍手自ら佩ふる所の刀を賜う 容敬江戸に逝す 容敬の性行 清雅堂漫録及び自鑑 本朝二十四孝を著す 三忠碑を建つ 巻十 容保 一 「ぺルリ」浦賀に来る 江戸地震藩邸頽廃す 京都守護職を命ぜらる 西郷、田中両家老の諌止 容保の入京 容保初めて参内拝謁す 言路洞開の建言書 浪士の足利三世木像の梟首 大将軍入京 新選組 容保大将軍の東帰を止む 我が藩唐門及び蛤門を守衛す 守護職の孤立 容保幕府に建議す 守護職東下の御下命並に大将軍への御沙汰書 天皇在京の諸侯を召し親諭を賜う 容保攘夷別勅使副行を辞するの書 宸翰及び御製を賜う 巻十一 容保 二 二條家と両敬の約を結ぶ 容保に賜える深秘の宸翰 増封五万石 京都守護職を罷め軍事総裁職となる 参議推任を辞す 重ねて極密の宸翰を賜う 専使を馳せて在国の重臣を戒諭す 参議推任再御沙汰 再度参議移贈の事を奏請す 軍備更張並に摂海防備 藩祖正之の贈位 容保再び京都守護職を命ぜられ辞表を呈す 幕府容保の辞職を許さず 徳川慶篤の弟余八麿を以て容保の嗣子と爲すの議 容保再び辞表を呈す 容保遂に守護職の命を拝す 新選組、古高俊太郎を捕ふ 藩士柴司の自尽 長藩の重臣入京軍備を修む 戦端を開く 蛤門の戦 我が藩の軍制改革 主上容保の平癒を祈らせ給う 巻十二 容保 三 容保全快参内天機を候す 大将軍入京参内す 開港條約 勅許 近藤勇長防の状況に関する報告書 巻十三 容保 四 長防處置の議決定、小笠原老中をして処分せしむ 大将軍の薨去 征長の官軍連戦利あらず 新選組、官務を撤する者を捕斬す 容保の辞表 容保余九麿を以て改めて嗣と爲す 天皇不予尋で崩御 巻十四 容保 五 容保大行天皇の御葬儀に扈従す 容保復た辞表を呈するも允されず 先帝の御遺物を賜ふ 容保再度参議の恩詔を拝し之を拝受す 余九麿初めて参内す 藩臣の減俸 政権奉還の議 容保親書を以て藩臣を戒勅す 大将軍軍職を辞す 王政復古の詔勅 徳川内府時事に付上奏 薩藩士の暴掠 薩邸の焼討 巻十五 容保 六 徳川内府討薩の表 伏見開戦 徳川内府の東帰 徳川前内府の存問慰労 容保の退隠 容保の哀訴状 家老等の嘆願書 容保会津に帰り屏居謹慎す 仙台、米澤、荘内諸藩の周旋 藩相の嘆願 世良砥徳殺さる 奥羽越の同盟 輪王寺法親王の会津入城 公議府の設置 同盟諸藩士の盟約 二本松、長岡陥る 西軍の侵入 藩をあげ殉灘を期して防戦す 米澤藩降を勤む 開城 容保父子の処罰 恩詔 首謀者の開申 萱野長修の殉国 家名再興 溶大斗南藩知事に任ぜらる 溶保、喜徳の謹慎赦免 喜徳実家に帰る 容保の叙位補職 容保の薨去 |